「『タケシ、お前はバッターのほうが稼げるぞ。甲子園を見ていたが、バッターのほうが長持ちするはずだ』」
「この一言が決定打となり、俺は打者転向を決意した。『責任とってくださいよ』などと生意気な言葉を返してしまったが、コーチが何も言ってくれず迷宮を彷徨っている中、4番打者であるオチさんの言葉は嬉しかった」(88~89頁)
入団から3年。投手として1勝もできず監督から打者転向を促されていたなかで、落合博満からかけられた言葉だ。83年オフか84年キャンプのことだだろう。この頃の落合は30歳。三冠王1回、3年連続首位打者を記録していた。恐らくは自らのバッティングに自信を深めていた頃で、チームでのポジションも「教わる立場」から「教える立場」へと変わりつつあった頃なのだろう。そんなとき打者転向してゼロからバッティングを学ぶことになった愛甲は、落合にとって一番弟子というべき立場だったはずだ。ただし、落合の著書に愛甲の名前は一切出てこない(西村徳文、高沢秀昭の名前はたびたび出てくる)。
「『俺は右打者だから左のバッティングはわからない。リーさんに聞け。ただ、打ち方は教えてやる』」
「春季キャンプ初日から“オレ流教室”が始まった。練習を終えるとオチさんの部屋に行き、丸めた新聞紙をボール代わりにトスバッティングだ」
「オチさん独特の表現は最初こそ難しかったが、ヒジや腰の使い方などを身体で覚えてくると、不思議なものでどんどん打てる。みるみるうちに上達していった」
「こうして“オレ流打撃術”を会得した。投手とはいえ、二軍では代打でヒットを放つなどしていたが、オチさんに教わった打撃術は、我流とは違い、明らかにプロの打撃だった」
(89~90頁)
こうして愛甲は落合の手から離れるが、ツンデレに定評――デレ成分がかなり多いタイプ――のある落合は、その後も何かにつけ愛甲を気にしていたそうだ。
「『タケシ、雑誌ないか?』」
「ありますよ、と週刊誌を手渡すと、サンキュ、と言いながら後ろ姿を見せた。正にそのとき、」
「『あ、そういえばな、今日のバッティング、いい感じだったぞ』」
「もちろん週刊誌は話のきっかけである」(90頁)
【ニコニコ動画】080729 サヨナラ打の森野に炸裂する落合のツンデレもそうだが、恩師にこういうことをされたら、どんな氷の心を持っていてもドロドロに溶けるというものだろう。このように一番弟子として目をかけられ、ときに信子夫人とのケンカの仲裁まで頼まれたという濃密な関係にあっただけに、愛甲が語る落合のエピソードには類書では見られないものも多い。そのなかで一番好きながエピソードこれだ。
「相手チームの投手は立ち上がりから調子がよく、1回を三者凡退、2回も先頭のオチさんが三振して戻ってきた」
「『キレてますね』と声をかけると、『大したことない、打てるよ』」
「三振してるじゃん、と心の中で思った」
「後に、このときのことを聞くと、オチさんはこう言った」
「『タケシ、よく考えろ。4番の俺が『打てない』なんて言ってみろ。誰も打てなくなるだろうが』」(92~93頁)
まさにプロのなかのプロ。ここまでチームの勝敗を背負う覚悟があったからこそ高い成績を残せたとも言えるが、一方で、ボブ・ホーナーが指摘するように「不調なとき、チーム全体が落合個人に頼ってしまう。落合個人の働きに、チームのスランプ脱出の突破口を“過度に”期待してしまう姿勢が見える」(『地球のウラ側にもう一つの違う野球があった』。93頁)と、頼られすぎてしまった結果、長期的なスランプ――多くの場合、死球や腰痛の影響でコンディションが万全でないにも関わらずフル出場してフォームを崩すというパターン――に陥ることが多かったのだろう。
この野球観は監督になってからも持ち続けているようだ。手堅く勝ちを拾う安定した成績を残す一方で、アンチ落合ファンから「若手が出てこない」「レギュラーがおっさんばかり」と指弾される現在の中日。この特異な球団のカラーは、中日の伝統(勝負どころで勝ち切れない強豪)もさることながら、落合の野球観に導かれた大方針、すなわち「レギュラーは全試合フルイニングで出るべし。エースと4番はチームの全責任を負うべし」という方針が貫徹された結果、産みだされたものと考えられる。
愛甲に見せた“強がり”は、現在のチーム作りから、上げ潮のときはぶっきらぼうで、ヤバいときに饒舌になる試合後のコメントまでに通底する「落合の行動の典型的なパターン」でもあり、その意味で最も落合らしいエピソードだと思うのだ。
(つづく)
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