2016年1月18日月曜日

SLGと「超訳 クラウゼヴィッツ『戦争論』」:その5

SLGに戦争を再現することはできない。なぜなら、ゲームとして成立させるために省略、抽象化しなければならない要素こそが、戦争の肝であるからだ。だからSLGをプレイするのは、スマホゲームをプレイするのと同じで時間つぶしに過ぎない――というのが、これまでつらつらと書いてきたことの結論です。

しかし、30年来のSLGファンとしては、この結論にちょっと異議を唱えたいところです。

確かにSLGは、戦術級のものでも戦略級のものでも、戦争を再現できているとは思いません。だからこそ戦争や作戦、将軍の心境などを疑似体験するために、戦術級のSLG――『大戦略』とか『信長の野望』の会戦とか『トータルウォー』など――を遊ぶことには、「いや、それで経験したことは、丸っきりウソだから」といいたい。実際、戦争を疑似体験したいのであれば、古今東西の戦記を読むか、チャンバラごっこをするほうが、よっぽど有益と思います。

でもですね、世の中にはいるんですよ。SLGを遊んだことで戦争を体験したような気になっている人が。14~15年くらい前のことです。手前がちょっと注目していたライターがいたんですが、その人が書いた戦記小説というのが、「あなた、『三国志V』で戦争を知った気になってない?」という代物だったんですよ。戦場に広く放った偵察要員からの報告(=100%正確)を元に、地図上のグリッドを埋めていって、敵軍団を居場所をリアルタイムで見つけて奇襲する参謀とかさ。このライターに限らず、「『信長の野望』や『大戦略』で戦争を知った気になっている」ような人はたくさんいますからね。

とはいえ、ここまではあくまでも戦術級のSLGを巡る特殊な遊び方についてのハナシです。これが戦略級のSLGとなると。時間つぶし以上の意味を見出すこともできるんじゃないかと思っています。

もちろん国家指導者の気分を疑似体験するために遊ぶことには反対ですよ。実際、常に正確な情報が把握でき、部下がサボタージュせず、なにより暗殺されることがない(=モニターの前に座っていて、いきなり後ろから刺されることは絶対にない)なかで、本当の意味での国家指導者の気持ちを味わうことなど不可能ですからね。

が、当時の国家のあり方、外交関係、戦争のあり方などを学ぶツールとしては、有益なのではないかと思っています。これは手前の経験なのですが、本で読んでいてもイマイチつかみ難かったことが、SLGをプレイすることでストンと腑に落ち、更に再読することで自分なりにしっかり把握できたことが、結構ありましたから。

最も古い体験では、中学二年生の頃に初めて『信長の野望・全国版』をプレイしたとき、「なるほど、自分の国の軍備をゼロにしたら、他の国から容赦なく攻め込まれるのだナ」という真理を理解したという経験があります。もちろんそれまでの短い人生で、「軍備を整えなければ、他国から侵略される」という真理を知ってはいました。が、それがどういうことなのか? を腹の底から理解したのは、『信長の野望・全国版』で何度も国を滅ぼされた後のことでした。同じように、核兵器による相互確証破壊という考え方がなぜ出てきたのか? についても、『Civilization』で何度も核戦争を行った結果、その意味を自分なりに深く理解できたものです。こうした効果は、本や映画のような受動的なメディアとは違って、能動的に選択を迫られるタイプのメディアであることや、リプレイ性の高さに故なのかも知れません。

もちろん、SLGをプレイしたことで目からうろこが落ちるような経験は、ゲームを遊ぶ前に、それなりに本を読むなり、映像作品を観るなりして得た知識を前提としたものです。いってみれば、これらの知識を頭で理解した後、深く身体に刻み込ませるためのツールとして、SLGを使ったといえるでしょう。まぁ、正確には期せずしてSLGを使ったというべきなんですが。実際、「よ~し、これから戦国時代を深く知るために『信長の野望』をやるぞ~!」なんて思うことなんて一切ないですし。SLGを遊ぶときは、「よ~し、これから天下を統一しちゃうもんね~」と、”織田信長ごっこ”をすることしか考えてませんから。

逆に、ゲームではイマイチ理解できなかったことが、本を読むことで100%理解できることもあります。手前にとって、そういった本の最高峰が「超訳 クラウゼヴィッツ『戦争論』」であるわけですよ。

それこそ、当エントリの「その2」、「その3」で書いたようなことは、20年くらい前からぼんやりと考えていたことだったります。が、これまでの人生で別につきつめて考えることもなく、そういった機会もなかったので、呂布が荀彧をコテンパンにする状況を横目で見ながら、何となく「これって何か変だよナァ」くらいに思っていたわけですよ。

こういった20年来のもやもやも、「超訳 クラウゼヴィッツ『戦争論』」を一読し、更にSLGをプレイするなかで、自分なりに言語化することができました。もちろん難解であることが定評となっている『戦争論』を、大づかみで把握できたことは言うまでもありません。結果、SLGファンとしても軍事ファンとしても、レベルが一つか二つくらい上がった気がします。

というわけで、今回、ここまでダラダラと書いてきた結論はといえば、今回文庫化された軍師の本は『隣の大国をどう斬り伏せるか 超訳 クラウゼヴィッツ「戦争論」』は、とても面白いだけでなく、SLGゲーマーにも軍事ファンにとっても有用な情報がてんこ盛りになっているので、是非、ポチって読むべし! ということです。


2016年1月15日金曜日

「SMAP=源義経」。つまりクーデターではなく粛清

SMAP解散について。さすがに3年以上TVを観ていない手前でも驚いた。実際、発売日から四六時中プレイしていた『Fallout4』の手をとめて、半日一杯ネットで情報漁ったり、6年ぶりくらいに『週刊新潮』を買ったくらいには興味のあるテーマなので、以下、思うところをつらつらと書いてみる。

でね、このハナシって「源頼朝が源義経を追い落としたハナシ」と一緒でしょ?

つまり――事実上の外様軍団が、自勢力の拡大に向けた数々の戦いにおいて、これまでの常識を打ち破る戦術で勝利する。結果、自勢力において最高の実力者となるものの、自勢力のトップに警戒され、邪険に扱われる。それでも耐えていたものの、遂に自勢力の方針に逆らってささやかな栄誉を得た結果、公敵に指定され粛清される――というハナシ。

以上の文章のうち、義経とSMAPに共通するポイントは以下の通り。

①事実上の外様軍団=義経は側室の子。SMAPは事務所の落ちこぼれ。
②数々の戦い=義経は一の谷や壇ノ浦。SMAPはレコード売り上げや視聴率競争。
③常識を打ち破る戦術=義経は鵯越etc。SMAPはバラエティへの本格進出etc。
④邪険に扱われる=義経はどんなに勝っても褒美を貰えず、坂東武士とも交流できなかった。SMAPはどんなに売れても事務所内の序列が低いままで、他派閥と共演できなかった。
⑤自勢力の方針に逆らって=義経は関東に無断で官位を受けた。SMAPは事務所に無断で紅白の司会になろうとした。

現時点では、4人が脱退方針を転換して出戻りを懇願しているなんて報道もあるけれど、これを義経のハナシに置き換えれば、「うん、腰越状だね」と。

こういった「最高権力者が、叩き上げでのし上がってきた外様の№2を警戒して、後の禍根を断つために粛清する」というのは、古今東西最も由緒正しい粛清のあり方だものね。韓信、長屋王、エルンスト・レームと、パッと思いつくだけでもすぐ名前が出てくるし。

ジャニーズ事務所の方針が、「事務所の傍流であるSMAPはもう十分。お前らの席(レギュラー及びCM枠)は、全て嵐に譲れ」と決まった以上、このまま事務所にいても仕事がなくなるのは確実。実際、副社長がSMAPのマネージャーに行った最後通牒は、「今後、SMAPの仕事を取るときは、全て副社長の決済を取ること」だっていうからね。これを受ければ事務所に残れただろうけど、そうなれば大きな仕事は全て決済が降りず、小さい仕事しか回ってこなくなると。代わりに空いた枠は、嵐なりTOKIOなりV6が埋めていくわけで。多分、2~3年後には今の岡本健一か内海光司みたいな立場になる――ってことは、メンバー全員が理解していたはず。

で、こうしたセミリタイアに甘んじるようなタマなら、40過ぎても「世界に一つだけの云々」なんてバカな歌を真面目に歌って№1の地位を維持し続けているわけなんてないはずでね。出ても地獄、引いても地獄なら、ココは一発勝負をかけるしかない! という悲壮というか捨て鉢というか、とにかくそういう心境で脱退→独立を目指したんじゃぁないかと。

そういう状況の下、仲間を裏切って敵に尻尾を振るキムタクはねぇ……。これじゃぁ弁慶が義経郎党を裏切るようなもんじゃないか。それにしてもキムタクは、これから映画とかドラマに出たとして、どの面下げて「友情」とか「仲間」とかを語るつもりなのかね?

SLGと「超訳 クラウゼヴィッツ『戦争論』」:その4

戦術級のSLGには、戦争の再現は全くできない――というのが、前回エントリの結論でした。では、前回指摘したようなツッコミどころを全て是正すれば、“将軍シミュレーター”としてより良いものができるのでしょうか?

以下、ちょっと「あるべき戦術級のSLG」について考えてみましょう。

例えば、大枠のシステムをTWシリーズに準拠するとして、その戦場の広さは40km四方くらい広大に設定。その戦場を鳥瞰することはできず、視点はあくまでも直率する部隊からの主観視点に固定される。当然、部隊の兵数、士気、疲労度などの情報は全て伏せられていて、兵数は自分の視野に入ってくる部隊に配属されている兵の数や規模感と、部隊長から上がってくる不完全な報告(=ポップアップ形式のメモ)でしか知ることができない。士気、疲労度なども、部隊の歩様や掛け声の大きさ、部隊長の報告から類推するしかない。これらの報告は、部隊長の性格や戦況の動きなどにより、過大及び過小に報告され得る。もちろん正確な情報が上がってくることもあるが、それを見極める方法はない。あくまでも複数の報告を照らし合わせ、自分の視野から見える情報(天気や兵の動きなど)から結論を導き出すしかない。

40km四方の広大な戦場であるために、真っ直ぐ進めば会敵するとは限らない。なので、前衛部隊を出すか、騎兵から偵察部隊を抽出して周囲を調べ、敵の位置や兵力などを探らなければならない。当然、偵察の報告も玉石混交となる。こうして情報を集め、情況を推測し、行軍方針、陣形、休養のタイミングなどを決め、各部隊に命令を下したとしても、その命令が各部隊に届くのは、ゲームのタイムスケールで30~1時間後となる。しかも、各部隊長が命令を履行しないorできないこともあり得るので、それを見越したバックアップ策も取る必要があり……。

とまぁ、こんな感じになるでしょうか。仮にゲームのタイムスケールを「1時間=6分」と設定しても、会戦が終わるまでにリアルタイムで7~8時間掛かかったりするでしょう。また、思うように部隊が動いてくれず、その動かない状況も正確に把握できないシステムであることから、ゲームプレイそのものがストレスの原因となるであろうことは、容易に想像がつきます。つまり、リアリティラインをグンと上げてしまうと、遊んで楽しいモノ、ゲームとして商品化できるようなモノにはならないということです。

こういった現実とゲーム性との折り合いをつけながら、「ゲーム的なリアリティ」を追及しつつ、売れる商品を開発することがゲーム会社の使命といえるでしょう。ですから、「なんだよ、戦術級のSLGなんてフィクションどころかファンタジーじゃねぇか!」みたいな文句をつけること自体が間違っているのかも知れません。

ただし、ここまでのハナシは、全て戦術級のSLGに限ったハナシです。これが戦略級のSLGになってくると、ハナシが大分変わってきます。というのも、戦術級のSLGにおいて、具体的に表現しなければならなかった各部隊の機動や士気、疲労といったものを、戦略級のSLGでは、上手い具合に省略できるからです。

具体的にどういうことなのか? 戦略級のSLGで手前が最も好きな、『Victoria2』(以下、Vic2)を例にあげてみましょう。

Vic2における会戦は、世界地図上で味方と敵それぞれの軍団(最小規模で3000人)がぶつかり合うことで生起します。ここまではTWシリーズと変わりありませんが、Vic2ではそこから戦術級のSLGに舞台が変わることはありません。会戦は自動処理され、早ければ1日、長ければ数ヶ月かけて決着がつけられます。

自動処理に盛り込まれているパラメータには、兵数に加え、軍団の技術レベルや部隊構成(歩兵、騎兵、砲兵の比率)、士気、補給レベル、戦場の地形、双方の将軍のスキル、厭戦気分などがあります。こうしたパラメータを合算したうえで、1日ごとに両陣営がサイコロを振り、その結果を受けて双方の兵数、士気が減り、最終的に士気が崩壊した方が敗走する形で決着がつきます。

このVic2の会戦システムは、非常に興味深いものなのですが、一々説明したら軽く10くらいのエントリが必要になるので、ここでは省略します。大雑把にまとめるなら、「自動処理におけるサイコロの目と諸要素の計算により、会戦における両軍の機動や攻撃、防御、奇襲などの要素を表現している」となるでしょうか。つまり、戦術級のSLGで不満に思う点が、全て抽象化されたうえで、数字に置き換えられているわけです。

その分、軍団の維持、行軍、強さなどについては、念の入った設定がなされています。例えば都市ごとに設定されている「補給限界」。これは大都市では多くの部隊が養える一方、田舎では数万人もの軍団を受け入れられないという事実をパラメーター化したものです。これにより、国境付近の田舎町数万人もの軍団を常駐させると、1日ごとに士気と兵数が減っていく――日々の食料がまかなえず、脱走兵が多発する――ことになります。これを避けるため、大軍団で侵攻するには、侵攻ルートを考え、軍団を分けて行軍しなければなりませんし、こうしたルートを考慮して有利な会戦場所を考えなければなりません。一昔前の『信長の野望』のように、四国の辺境の城に20万もの兵力を常駐させるなんてことはできなくなっているのです。

また、「補給限界」にあわせた小軍団であっても、敵地で露営すれば士気が下がりますし、冬の行軍では脱落者が続出します。それに国家の方針として厭戦主義及び非戦主義(与党が社会主義政党である場合に多い)をとっている場合には、軍隊への予算配分が減ってしまうので、その分、補給物資が滞るようになり、軍団全体のポテンシャルが落ちてしまいます。

以上のようにVic2は、国家的な視野から軍を動かすにあたってのリアリティラインが、結構高めに設定されています。なにより戦場の偶然をサイコロで再現し、軍における摩擦を補給限界や行軍、露営時の消耗度で表現する一方、部隊の機動や滞陣、奇襲などの要素は大胆にオミットすることで、戦術級のSLGが陥りがちなファンタジー性をなくし、逆説的にリアリティラインを高めているといえるでしょう。

では、戦略級のSLGは戦争をリアルに表現できているのか? といえば、残念ながらNOといわざるを得ません。理由は戦術級SLGと同じで、GNPから個々の軍団の兵数に補給比率、果ては国民の厭戦気分まで、あらゆる情報を100%正確に把握できる点にあります。では、これらの情報を全て伏せ、部下からの正確かどうかわからない数々の報告から類推できるようにすれば良いわけでもないってことは、上記のとおりです。

「だったらSLGなんて、スマホのゲームと同じで『時間潰しのツール』でしかないじゃん」

と言われれば、「その通り」と応えるしかないわけですが、それでもSLG、とりわけ歴史モノのSLGには、『時間つぶしのツール』以上の何かがあるはずだと思うのですよ。
(つづく)

追記:このエントリは次回で終わりです。



2016年1月12日火曜日

SLGと「超訳 クラウゼヴィッツ『戦争論』」:その3

戦術級のSLGといえば、古くは『大戦略』のように、「ヘックス状に分けられたボード上にユニットを置き、ターンごとに動かす将棋の亜種」が主流でした。しかし最近では、こうしたターン&ヘックス制のSLGはほぼ絶滅し、もっぱら3Dで精緻に再現された戦場を、両陣営のユニットがリアルタイムで動くリアルタイムストラテジー(以下、RTS)が主流となっています。こうしたRTSのなかで、最も優れているゲームの一つが『Total War』(以下、TW)シリーズであることは、多くの人が認めているものと思います。

TWシリーズは、ローマ時代から中世、日本の戦国時代から幕末と幅広い時代についてゲーム化していますが、基本システムはいずれも同じです。そのシステムについて大雑把に説明すると、「各領域の地図上で、自国を発展させたり、敵国を混乱させたり、外交したりする」「数個~十個弱の軍団を各地に派遣して、攻撃or防衛に努める」「自国の軍団が敵国の都市or軍団とぶつかると、戦場のシーンに移り、戦術級のRTSである会戦が始まる」といった感じになります。

会戦では、山地や森、平原、砂漠、城塞都市などの広大な戦場で、自ら編成した数個~20個までの部隊を縦横に動かして、敵部隊を包囲したり、後背を衝いたり、森の陰から奇襲したり、タイミングよく突撃したり、ちりぢりになった部隊を再編成して逆襲したりetcと、刻々と変わる戦況を見ながら軍団を指揮します。リアルタイムで戦場を駆け巡る歩兵部隊や、突撃&追撃に精を出す騎兵部隊の動きは、まるで歴史物の戦争映画を見ているかのような迫力です。

【ニコニコ動画】Total War: RomeⅡ - ゲルマニア戦記 - 序章 第二話

映像だけでなく、個々のパラメータも細かく設定されているところも大きな特徴です。

部隊の前後左右にはそれぞれ異なる防御力が設定されていて、「前方は一番硬く、次に盾を持っている左側が硬く、後方が一番弱い」となっています。部隊には、士気のほかに疲労度があり、「長距離を歩かせたり、全速で走らせたり、突撃させたり、長い間攻撃を繰り返すと疲労度が上がる」「疲労をとるためには、敵の攻撃にさらされない場所で、じっとするしかない」「元気満々だと、突撃&攻撃の威力が高く、早足で機動できる。一方、疲労困憊していると攻撃に迫力がなく、のろのろとしか動けない」感じになります。

また、味方が優勢であれば、士気も高く、多少疲れていても無理押しできますが、後ろから攻められたり、包囲されたり、将軍が殺されたりすると、士気は激減。一定以上士気が低下すると、敗走し始めます。一部隊でも敗走を始めると、よほどのことがない限り連鎖的に他の部隊も敗走してしまいます。なお、敗走した部隊は、一切操作できず、退却するまで見守るか、逃げる途中で士気が戻り、再び操作できるまで待つしかありません。こうして全部隊を敗走させれば勝利、逆に敗走してしまえば敗北です(戦況が不利になった時点で投了もできます)。

部隊の攻撃力、防御力は、部隊の質(兵種なり技術レベル)により設定されていて、将軍の個性として攻撃力や防御力が設定されていないところにも好感が持てます。つまり、誰が軍団を率いていようと、技術レベルが同等である限りにおいては、兵数の多寡及び指揮の巧拙が勝敗を左右するということです。TWシリーズにおいては、呂布がジュンイクに100%勝つようなことはありません。

このようにTWシリーズの会戦は、戦術級のSLGとして実によく出来ているといっていいでしょう。しかしですねぇ、こんな“将軍シミュレーター”というべき完成度の高いゲームに対しても、やっぱり不満があるわけですよ。

以下、パッと思いつくことをあげつらうとですね。

「部隊を鳥瞰的に眺められるなんてあり得ない」
「全部隊の士気、疲労度や兵数などを100%把握できるなんてあり得ない」
「各部隊とも予測通りに動き、決して遅延、落伍しないなんてあり得ない」
「隷下の部隊が命令に絶対背かず、100%理解して行動するなんてあり得ない」
「無線のない時代なのに、逐次の命令変更が瞬間的に反映されるなんてあり得ない」

てな感じなります。もっとも最近のTWシリーズでは、最難関モードで「戦場を鳥瞰できず、直率する部隊の視点のみで指揮する」ことができたりします。それでも他の4点については、↑にある通りですからね。

こういった点について、実際の戦場ではどうなのか? クラウゼヴィッツの言葉から引用します。

――作戦の開始後に入ってくる情報は、正確なものなど一つもありはしない。特に野戦司令官のもとには、誇大であったり捏造された、不安をかきたてる情報の粗大ゴミが次々と波状に押し寄せてくる。
(93頁)

軍司令官が、隷下部隊の某指揮官に対し、「X日のY時までにP地点まで進出して、Z時からの総攻撃ではQ地点の敵を撃攘すべし」という命令を確かに下したのだが、その部隊がどういうわけかX日のY時になってもP地点にいっこうに姿を見せぬ……という齟齬・蹉跌は、実戦ではあたりまえのように起こる。大部隊を実兵指揮したことのない「机上戦史空想家」がしましば想到できぬ現実だろう。

某部隊は、突然の局地的大雨に遭って平地が泥濘化し、砲車が轍に埋まって進めないのかもしれない。大森林の中で方位を間違えたのかもしれない。欧州では磁石の針が真北を指さない所があちこちあるので……。指揮官が食中りの急性症状を呈し、弱気になって統率が混乱しているのかもしれないし、部下が反抗的になって強行軍をサボタージュしているのかもしれない……。
(96頁)

過去の著明な戦争の最高司令官たちは、残されている資料を読むと、まるで、みずから率いた国家や軍という<戦争マシーン>に内在する何の摩擦も覚えていなかったかのようだ。
~~中略~~
国家や軍という<戦争マシーン>は、個人の四肢のようには働いてくれない。――(270頁)


とまあ、かくの如しです。いくら士気や疲労度などが精緻に設定されていたとしても、そういった情報を100%正確に把握できる時点で、TWシリーズのみならず、他の戦術級のSLGの中身が、実際の戦争とは程遠い“何か”であるということ。見方によっては、それなりに重い竹刀や棒切れを使い、叩かれれば痛いことが確実な“チャンバラごっこ”の方が、戦術級のSLGよりもよっぽどリアルな戦争に近いとさえ言えるのかも知れません。

(つづく)



2016年1月9日土曜日

SLGと「超訳 クラウゼヴィッツ『戦争論』」:その2

クラウゼヴィッツによれば、戦争をニュートン物理学のように綺麗に論証はできない。なぜなら、指導者や軍、銃後の無形の力を数値化することができないからだ。だからこそ、SLGで戦争を再現することは「不可能」なのである。

……というハナシが正しいとして、SLGで戦争を再現する努力は全くの無駄なのでしょうか?

そんなことはありません。いや、筋金入りの兵頭ファンであれば、「その通り!」と力強く宣言すべきなのでしょう。しかし手前は、良く訓練された兵頭ファンを自任する一方で、30年来のSLGファンですからね。「そんなこたぁない!」といいますよ。敢えてね(ってもう古いか)。

実際、いかに重要なファクターであるとはいえ、一部のファクターが再現できないからといって、全体を再現するのは無理! とばかりにゲーム化を諦めていたら、野球だって競馬だってゲーム化なんてできないですからね。それに、現実世界では無理でも、ごっこ遊びもいいからプロ野球の監督やダービー馬のオーナーになりたいという人は掃いて捨てるほどいます。で、ごっこ遊びでもいいから、カエサルとか織田信長みたいな英雄になりたいという人は、全てのスポーツの選手、監督になりたい人を合わせたより多いわけですから。そういった人々に向けて、ごっこ遊びのツールであるSLGを作るというのは、儲かるだけでなく、夢を売る有意義な仕事でもあると思うんですよ。

と、熱くSLGの必要性を語っているわけですが、一方で、現在上市されているSLGに満足しているわけでは全然ありません。というか不満ばっかりですよ。ええ。

パッと思いつくのは、『信長の野望』や『三国志』における「武将の能力値」。これほど納得のいかないものはないですからね。といっても、「石田三成の統率とか武力が低すぎる」とかいう、各武将の能力値の設定に合点がいかないといったハナシじゃないですよ。そんな程度の低いハナシではなくて、根本的なシステムのハナシです。

初代『三国志』では、全武将中最強の呂布が率いる兵力1の部隊が、最弱レベルの荀彧率いる兵力200の部隊に突撃したら、哀れ荀彧が負けてしまう(=200の兵力が0になるという形で負ける)ものでした。ここまで極端ではないにせよ、同じ兵力、同じ地形で部隊同士が戦えば、より武力なり統率なりの高い部隊が100%勝つのが、『信長の野望』や『三国志』の戦争です。ここでは両作品をあげつらっていますが、他のほとんどのSLGにしても同じことです。

でもこれっておかしくないですかね? 

呂布が戦いに得意で、荀彧が戦いを苦手にしていることはいいとしましょう。その得意のレベルを100段階で数値化するのもいいとしましょう。同じ兵力で戦った場合、「武力100の呂布が、武力20の荀彧をボコボコに打ち破るであろう」と予測できることもアリとしましょう。でも、いつ何時であっても部隊同士のぶつかり合いでは、呂布が荀彧を打ち破るというのはおかしいと思うのですよ。

だって、呂布にしても荀彧にしても、率いる兵隊の装備は大して変わらないわけです。で、呂布の率いる部隊とて、仮に完璧な両翼包囲をされてしまえば、カンネーの戦いにおけるローマ軍団のように負けてしまうことは必定のはずです。となれば、同兵力の部隊のぶつかり合いにおいて、武力100の率いる部隊は、常にどの部隊よりも強く、必ず勝てるという、能力値を基にした戦争システムは、やっぱりおかしいんですよ。

じゃぁ、どのようにして武将の能力を設定すれば良いのか? そのヒントになりそうなハナシを、以下、引用します。

――国家も軍隊も、分業で成り立っている。組織の分業がうまくいっているときは、大仕掛けの機会の隅々にまでよく潤滑油が回っているようなもの。その組織を動かす者には、特に天才など必要とはされまい。彼が指揮杖をひと振りすれば、半自動的に事は進むから。ところが、短期戦で勝つ見積もりが外れて長期戦になり、味方に敗け色が見え、誰もが疲れてくると、組織はさながら「潤滑油が切れて動かなくない機械」と化す。

~~中略~~

ナポレオンは、情況が不利になったときに、下級軍人たちの高次の名誉心を刺激して、高い文明を前提とする公的な栄光のために犠牲になろう、苦労しよう――と気力を奮い起こさせた。有能な将校たちには、フランス上流社会における「名将」の声望と社会的・経済的な地位向上を、戦場手柄によって求めるように促した。兵隊や下士官から将校に昇進する道は、フランス革命以来、常に開かれていた。

おかげで彼の機会は、ついど油切れになることはなかった。――(82~83頁)

このクラウゼヴィッツによるナポレオン評をベースに、戦いを得意とする武将の能力というものを考えてみるなら、以下のようになるのではないでしょうか。

例えば、「部隊の強さは<士気>の多寡で大きく左右される」「部隊は行軍や戦闘を続けると<士気>が激減する」といったシステムの下で、「戦いに得意な呂布が率いる部隊は、強行軍や連戦を続けても<士気>が下がりにくい」が、「荀彧が率いる部隊は、すぐに<士気>が下がる」といった感じなるでしょうか。

この場合、両部隊とも同じ地形、同じ<士気>でぶつかった場合は引き分けになります。しかし、3回、4回と戦い続けていくと、呂布の部隊に比べて荀彧の部隊の<士気>がダダ下がりとなり、荀彧が敗走することになるでしょう。一方、荀彧の部隊が、有利な地形から呂布の部隊を猛攻できた場合には、1回のぶつかりあいで荀彧が呂布を敗走させることもできるはずです。

このように単純な武力や統率といった数値の多寡ではなく、「部下を奮い立たせるスキル」、「強行軍をしても脱走兵が出ないスキル」といったシステムをベースに、ゲームがデザインされているのであれば、手前もここまで不満を抱くことはなかったと思います。

が、それでも部隊を縦横に動かして、ぶつけて、包囲したり奇襲したりするような「戦術級の戦争」(『大戦略』や『信長の野望』、『Total War』など)を再現するようなゲームであれば、やっぱりどこかしらに不満が残ってしまうわけで……。

(つづく)

2016年1月6日水曜日

SLGと「超訳 クラウゼヴィッツ『戦争論』」:その1

兵頭二十八師の『新訳 戦争論』の文庫本が発売されました。タイトルは『隣の大国をどう斬り伏せるか 超訳 クラウゼヴィッツ「戦争論」』 です。同書は、数ある兵頭本のなかでも最も好きな本で、これまでに5回再読――手前は一度読んだ本を再読するのが大嫌いです。どれくらい嫌いかというと、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』を再読しなかったくらい――しています。で、このたび6回再読したところで、感想とか読みどころなどのエントリを書くつもりだったんですよ。でも、あまりにも好きすぎて、一歩引いて分析するのがなかなか難しいので、今回は、再読しながら思ったことを、つらつら書いていきたいと思います。

だったら何について書くのか? といえば、「コンピュータゲームにおける戦争の取り扱い」のこと。すなわち、『大戦略』や『信長の野望』から『Total War』『Victoria2』といったシミュレーションゲーム(以下、SLG)において、現実の戦争を再現することへの挑戦とか困難とかについてですよ。

SLGにおいて、戦争を再現できるのか?

この問いへの答えは「不可能」です。理由はハッキリしています。戦争における諸々の精神力のありようを、ゲームに置き換えられないからです。

「いやちょっと待て。それは<士気>で置き換えられるでしょ」

ちょっとでもSLGをかじったことのある人なら、↑のようにつっこむことでしょう。確かに戦場における部隊の強さなんかは、古くから<士気>の高低で表現されています。しかし、戦争状態にはいった銃後の怒りや諦観などまで数値化できるかというと、これは難しい。その理由について、『隣の大国をどう斬り伏せるか 超訳 クラウゼヴィッツ「戦争論」』より引用します(以下、特に断りがない限り引用書籍は同書となります)。

――敵国の軍事的な抵抗力は、計測できるだろうか? これは数学的な意味では不可能だ。理由は、そこに無形の要素、たとえば「意志の力」「憎しみの力」などが、かかわるためだ。おかげで、ニュートン物理学のように綺麗に、「これだけ兵数で上回ったなら敵軍に必ず勝てる」などと論証することは誰にもできない。せいぜい言えるのは、「敵より有形的にも無形的にも強ければまず勝つだろう」「有形的に敵より少数であっても、無形の力が敵よりも著しく発揮されたならば、勝つかもしれない」ということである。当然に、敵もまたこちらに対抗して自由に努力を積みませる。

 なかんずく、無形要素の喚作には互いに上限というものはない理屈であるから、「こちらとしてはできる限り準備をしたうえで、特に気勢は充実させて臨むべし」といった、はなはだ文学的なアドバイスに落着させざるを得ぬ。残念だが、学問的には、この辺が誠実な総括だ。――(46頁)


実際、無形の力を数値化しようにも、互いに際限なく上積みできるものは数値化のしようもないんですね。10段階だろうか0から65535までだろうが、上限を決めた時点で、無形の力を再現しきれていないわけですから。

このように説かれても、「いや、そうはいったってどんな要素も数字に置き換えることは不可能じゃないでしょ」といいたくなる人も多いかと思います。例えば国民感情を10段階で表すことにして、10だと補給物資などが増え、部隊が強くなり、0だと逆になると設定。そのうえで自国の中核的領土に敵軍が侵入したら、国民感情が0から7とかに上がるようにすれば、クラウゼヴィッツのいう無形の力を表現できるんじゃないか? という反論もあり得るでしょう。

こんな指摘には、再度、引用で答えたいと思います。

――およそ、政治的目的が、戦争の動機なのである。しかし、その政治的目的なるものは、数値化できず、数学的計測にもなじまない。そしてまた、<政治的目的が大きく高くなるほど、戦争努力もそれにつれて猛烈なものになる>とも決まっていない。

政府の追及する政治的目的に、その国民大衆が深く同意しているときは、戦争のなりゆきがいかほど不利で苦しいものになろうと、その政治的目的は放棄されないだろう。

~~中略~~

乾燥した火薬の詰まった樽の一隅に火がついたら、瞬時に全体が燃えつくさないことなどあろうか。しかし、戦争はそのようなシンプルな、外力が介入しない化学変化過程とは違っている。戦争の火勢は、途中で衰えたりしずまったりするだろう。いつまでも燃え続けることもあれば、じきに消えることもある。――(50~55頁)


戦時下における各国家の指導者、軍、銃後の感情、士気、精神力etcは、会戦の勝敗、戦争の長期化などの展開により、ダイナミックに左右されます。が、「会戦に大負けしたら、必ず指導者の士気は激減する」とか、「戦争が長引いたら、必ず銃後に厭戦感情が沸き起こる」というわけではありません。場合によっては全く逆になることもあれば、大して変わらないこともある。偶然や些細なイベントによって劇的に変化することも少なくない……。つまり、「誰にも予測できない=シミュレートのしようがない」ってことです。

(つづく)