2010年7月22日木曜日

清原和博、「反骨心」:その3

清原が巨大な才能を腐らせてしまったという見方は、手前の専売特許ではない。多分、KKコンビ時代から清原を見ているほとんどの野球ファンは同じように考えているだろうし、プロ野球OBの多くも同じように考えているようだ(野村克也、張本勲、落合博満など)。

問題は、なぜ巨大な才能を腐らせてしまったのかということだ。

これについても諸説あるが、大雑把にまとめると「練習が嫌いだった」「夜遊びばかりしていた」の2つにつきるだろう。

ただ、この2つの説だけでは、巨大な才能を腐らせた理由の全てを語っていないと思うのだ。

まず「練習嫌い」について。こうした評価は清原には当てはまらないのではないか? 何といっても下手なプロよりも練習させるPL学園全盛期の“最高傑作”なのだ。高校時代のKKコンビは誰よりも練習していたという(同級生、監督、ライバルらがもれなく証言している)。少なくとも元木大介のような「生来の練習嫌い」ではないだろう。プロ入り後も、西武時代は練習にも真面目に取り組んでいたとされている。練習についていえば、質はどうあれ量は十分以上こなしていたといえるのではないか。

巨人時代ではどうだったのか? 肉体改造するまでの成績は西武時代とさほど変わらず、その点で「西武時代末期のスペック通り」の働きはしていたといえる。つまり、西武時代の成績を維持するに必要なだけの練習はこなしていたと考えられよう。ただし、肉体改造から晩年にかけては、明らかに練習不足だった。

次に「夜遊び」について。これについては王貞治をはじめ、往年の超一流選手のほとんど全てが遊びまくっていたことを挙げれば十分だろう。遊びまくっても打てる選手は打てるのであって、「遊ぶ=練習しなくなる=才能が腐る」というほど単純な等式で表わせるものではないはずだ。

つまり、「練習嫌い」という評価は「夜遊び」というイメージに基づいたレッテル張りに過ぎず、巨大な才能を腐らせた本質的な問題ではないのではないか? というのが手前の考えだ。

ではなぜ、清原は巨大な才能を腐らせてしまったのか?

手前は、「悪いことを他人のせいにするメンタリティの弱さ」にあったと考えている。すなわち、超一流のプロ野球選手に必要な『精神的才能』(=悪いことを他人のせいにしないメンタリティの強さ。つまるところ責任感の強さ)に欠けていたということ。

なぜ、このような考えを持つに至ったかといえば、清原の自伝『反骨心』を読んだからだ。この自伝には、清原の持つ「悪いことを他人のせいにするメンタリティの弱さ」が如実に顕れている。
(つづく)

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