2014年1月30日木曜日

骨太の“兵頭節”が味わえる『人物で読み解く「日本陸海軍」失敗の本質』

◆目次
・荒井郁之助
・村田経芳
・黒田清隆
・西郷従道
・山田顕義
・小川又次
・本郷房太郎
・山下源太郎
・田中義一
・岡田啓介
・宇垣一成
・南次郎
・荒木貞夫
・多門二郎
・櫻井忠温
・高橋三吉
・兼田市郎
・岡部直三郎
・石原莞爾
・角田覚治
・保科善四郎
・大西瀧治郎
・阿部孝壮
・田中新一
・堀場一雄

兵頭二十八師の新刊『人物で読み解く「日本陸海軍」失敗の本質』を一足早く読みました。新刊は、兵頭ファンであれば誰でも知っている隔月刊誌『表現者』の連載記事「近代未満の軍人たち」をベースに加筆・修正したもので、09年刊の『近代未満の軍人たち』(光人社)の続編というべき書です。手前のように貧乏をこじらせて、隔月ごとに『表現者』を買えなかったファンにとって待望の書といえましょう。

といっても、日本唯一の軍学者の新刊ですから、ただ単に連載を集めただけの本であるわけがありません。軍師曰く、「雑誌記事を集積しただけの単行本企画は、むかしは小生のあまり気の進まないものでした」「が、この連載に関しては、テーマも内容も、あえて流行を追わぬものであるために、かえって話の鮮度が保たれているように思われます」(421頁)としていますが、これは謙遜も謙遜ですよ。だって連載記事の再掲分は新刊の2/3弱で、残り1/3強が書き下ろしなんですから。

何を書き下ろしているのかといえば、石原莞爾の章です。そのボリュームは実に170頁超。文字数にして8万字超ですから、ちょっとした新書1冊分――『プラトニックセックス』や『恋空』なら多分2~3冊分――ですよ。しかもその内容は超硬派。久しぶりに“肩の力を抜いて読めない兵頭本”となっています。

手前の見るところ軍師は、『「自衛隊」無人化計画』(09年、PHP研究所刊)を契機に、初見の読者でも容易に理解できるように、努めてわかりやすく書くことを意識しているように思います。もちろん、それ以前の本でもわかりやすく書くことを意識していたのでしょう。ただ、09年以降は、一冊の本のなかで唐突に別のテーマを書いたり、強いて難しい漢字を使ったりすることを意識的に避け、より初見の読者に歩み寄った書き方になっているのではないか――と思っているわけですよ。そんな“わかりやすい軍師本”の集大成が、関係各所から絶賛された『日本人が知らない軍事学の常識』(12年、草思社刊)です。

翻って新刊の石原莞爾の章は、こうしたわかりやすさとは無縁です。いや、文章はわかりやすいですし、書かれている内容だって時系列的を順々に追った伝記なので、構成や文章に難があるって話じゃありません。では、どこがどのようにわかりやすさとは無縁なのかといえば、「むやみに情報量が多い」ことに尽きます。

伝記なんだから、生まれから青年時代、将校、参謀として活躍し……みたいな生い立ちを中心に、性格や思想を深堀りするという内容であれば、手前だって“肩の力を抜いて読めない兵頭本”なんてことはイイません。でも、こうした伝記を軸に――

・マルクス思想への対抗運動としての法華経
・国柱会の存在意義とその影響力
・無限を生み出した古代インド人の思想と、有限に整理したがる古代中国人の思想
・両者の思想の相克から変形した新仏教と「時代の区切りの発想」

――といった法華経を巡る斬新な解釈――といっても、軍師によれば『法華経』(岩波文庫)を翻訳した岩本裕を初めとする研究者にとっては当たり前のことらしい。もちろん、サンスクリットからの直接和訳を読まず、漢訳→和訳されたものや、その他の二次文献から翻訳されたものしか読んだことのない人にとっては目からウロコの話であることは間違いない――や、そこまで踏み込んだ上で、独特な“石原思想”へと切り込み、『最終戦争論』以下の予言的な論説を腑分けしているわけですよ。

つまるところ本3冊分くらいの内容を、170頁超のスペースに無駄なくみっしり詰め込んでいるので、絶対に斜め読みできない濃すぎるモノになっているということ。上記のほかにも、「国際商品である大豆と満州の関係」とか「河本大作の水際立った謀才」とか、いろいろと読みどころが多く、蒙を啓かさられること必定です。言葉を換えれば、数ページごとに突然テーマが飛躍したり、詳細なうんちくが語られたりするということでもあり、故にリーダビリティは決して高くないといえます。

石原莞爾については、様々な著者が様々な伝記を書いています。手前も、最も長い伝記の一つである福田和也氏の『地ひらく』(文藝春秋刊)以下、幾つかのを読んだことがありますが、新刊の石原莞爾の章は、これまでに読んだどの石原莞爾論よりも秀逸です。実際、法華経をゼロから遡って“石原思想”の本質に迫った著者なんて、軍師以外一人もいないわけですし。

と、新刊の書き下ろし部分だけ熱く語ってしまいましたが、その他の評伝の面白さも折り紙つきです。例えば黒田清隆の章では、自他共に西郷隆盛の弟分であった黒田にとって、山県有朋や前原一誠の部下にはなれないという事情から、彼らが牛耳る兵部省ではなく、「北海道開拓使=第二の兵部省」として、北海道~樺太を黒田に任せる――という説得力のある説を立てていますが、他の評伝でも同じように類書にはない面白い要素が盛り込まれています。

また、前著では児玉源太郎、森林太郎、上原勇作以外の全員が戦間期~第二次大戦当時の軍人でしたが、翻って新刊では、明治初期から大戦末期までの軍人をバランスよく取り上げているので、「日本陸海軍の歴史をザッと振り返る一冊」としても読めます。

ともあれ手前は、韓国は仏像を返還すべきであると思う。



2014年1月1日水曜日

大河ドラマ的日本史年表:西田敏行2014年版

大河ドラマ終了と同時になぜかアクセスが急増していたので、ご好評に応えて役と俳優を対応させたバージョンを作成。元ネタは2chの「大河ドラマ的日本史年表」スレ。大河ドラマのみでその他のNHK及び民放時代劇、映画は使用せず。なお、西田敏行は国盗り物語(弥八役)にも出演していますが、ちょい役――MUSASHIの内山半兵衛はゲスト出演でも重要な役どころだったものの、こっちは総集編にも出てこないほどの小さい役――なので敢えて年表には反映していません。

・西田敏行@1163~1221(新・平家物語:北条義時)
・西田敏行@1536~1561(武田信玄:山本勘助)
・西田敏行@1561~1598(おんな太閤記:豊臣秀吉)
・西田敏行@1549~1614(功名が辻:徳川家康)
・西田敏行@1600~1614(葵 徳川三代:徳川秀忠)
・西田敏行@1601(武蔵 MUSASHI:内山半兵衛)
・西田敏行@1716~1745(八代将軍吉宗:徳川吉宗)
・西田敏行@1854~1877(翔ぶが如く:西郷隆盛)
・西田敏行@1866~1922(花神:山県有朋)
・西田敏行@1868~1877(八重の桜:西郷頼母)

・1163年、西田敏行、生誕
・1180年、西田敏行、石坂浩二(草燃える:源頼朝)に従い源平合戦に参戦
・1205年、西田敏行、鎌倉幕府の政所別当に就任
・1221年、西田敏行、尾上辰之助(草燃える:後鳥羽院)による西田敏行追討の宣旨を受け、幕府軍を招集。姉の岩下志麻(草燃える:北条政子)とともに上皇軍を破る
・1536年、西田敏行、成田三樹夫(徳川家康:今川義元)に仕官を申し出るも断られる
・1543年、西田敏行、菅原文太(武田信玄:板垣信方)の推挙により佐藤慶(徳川家康:武田信玄)の下に出仕
・1549年、西田敏行、実父である近藤正臣(徳川家康:松平広忠)が暗殺される
・1561年、西田敏行、川中島で石坂浩二(天と地と:上杉謙信)と相対する佐藤慶(徳川家康:武田信玄)に「啄木鳥戦法」を献策
・1561年、西田敏行、佐久間良子(おんな太閤記:ねね)と結婚
・1573年、西田敏行、三方ヶ原の戦いで佐藤慶(徳川家康:武田信玄)に敗退
・1582年、西田敏行、本能寺の変を受け、中国大返しと伊賀越えを果たした後、山崎の合戦で近藤正臣(国盗り物語:明智光秀)を破る
・1584年、西田敏行、小牧・長久手の戦いで西田敏行(功名が辻:徳川家康)に敗退
・1586年、西田敏行、西田敏行の妹である松本明子(功名が辻:旭姫)と結婚し、西田敏行(おんな太閤記:豊臣秀吉)に臣従を誓う
・1598年、西田敏行、西田敏行(功名が辻:徳川家康)を五大老に任命
・1600年、西田敏行、藤波辰爾(江:真田昌幸)に進軍を阻まれ西田敏行(功名が辻:徳川家康)の叱責を受ける
・1601年、西田敏行、市川新之助(武蔵 MUSASHI:宮本武蔵)とともに村を襲う盗賊集団と戦う
・1603年、西田敏行、征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く
・1605年、西田敏行、西田敏行(葵 徳川三代:徳川秀忠)に将軍職を譲る
・1614年、西田敏行、大阪冬の陣にて西田敏行(功名が辻:徳川家康)から再び叱責を受ける
・1716年、西田敏行、八代将軍に任じられる(八代将軍吉宗:徳川吉宗)
・1745年、西田敏行、中村梅雀(八代将軍吉宗:徳川家重)に将軍職を譲る
・1854年、西田敏行、加山雄三(翔ぶが如く:島津斉彬)とともに江戸に赴く
・1866年、西田敏行、第二次長州征伐で西田敏行(花神:山県有朋)率いる奇兵隊と戦う
・1868年、西田敏行、西田敏行(花神:山県有朋)らとともに倒幕を果たす
・1868年、西田敏行、会津戦争で新政府軍に敗退
・1869年、西田敏行、西田敏行(翔ぶが如く:西郷隆盛)の協力を得て徴兵制を施行
・1875年、西田敏行、都々古別神社の宮司に任じられる
・1877年、西田敏行、西田敏行(翔ぶが如く:西郷隆盛)との内通が疑われ宮司を解任される。その後、西南戦争で政府軍に敗退
・1889年、西田敏行、内閣総理大臣に任じられる
・1894年、西田敏行、日清戦争で第一軍司令官として清軍を破る
・1904年、西田敏行、日露戦争で参謀総長としてロシア軍を破る
・1922年、西田敏行、死去

ともあれ手前は、韓国は仏像を返還すべきであると思う。