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2012年5月14日月曜日

『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』と兵頭二十八師の論考:その4

以下、『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』で語られていた薀蓄について、『ヤーボー丼』の「附録・研究ノート:『五輪書』にあらわれた日本語的軍事理性を見直す」からのパク……いや、剽……、いや盗……、いや引き写……じゃなくて、ごく客観的かつ公平に見て、「どうも良く似てるナァ」と思われる部分の抜粋です。映画で出てきた順番にあわせて紹介します。

◆『ヤーボー丼』、「附録・研究ノート:『五輪書』にあらわれた日本語的軍事理性を見直す」より

およそどのような言語であれ、視覚イメージと照合し得ない抽象語(表現)は、時と共に多義化することがある。その多義化がいきすぎれば、望ましいコミュニケーションが行えなくなる。
(中略)
しかし、時と所によって、抽象語のそうした多義化がどこまでも許容されるかに見える場合がある。恐らくそれは、ある言語地域に対する他言語の接触が永い間局限され、対応関係にある外国語単語が当地の言語使用者の意識の上で最早照応されなくなった時か、さもなくば、その地域の言語生活の上では、レトリックよりも、単語が連想させる視覚的でない漠然としたイメージを多用する方が効用が大きい場合であろう。

日本語文化圏には古来、後者の傾向が存したといわれるが、室町時代に普及の始まった禅家者流の言語態度が、それを一層強化した可能性がある。加えて江戸時代の鎖国の完成は、前者の条件をも実現し、ひとつの単語に無限定の連想を胚胎せしめる言語習慣を、明治の開国にも関わらず、軍部の中にも繁茂させてしまったのではないか。
(180頁)

(11)「仏法、儒道の古い語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちひず…」

彼以外の江戸時代の兵法者が多くの新外来語に助けられているのに比し、『五輪書』は、自分の体験・見聞とその自己分析以外からは何の権威も借りていない。
(中略)
その会得した所を彼自身の平明な日本語にしたためて、文字を媒介にした後世の人の批判も受けて立とうとする科学的合理精神も、「不立文字」などを呼号しながらその実文字を弄び、遂にはこの日本国に、レトリックなき大衆指導者を簇生せしめるに至る歴史的起因となった禅家者流の言語態度とは、氷炭相容れない。

巷間、宮本武蔵をもって禅の一種の達人と見做したがる風潮があるが、事実は、禅などの影響が最小限に止められたが故に、『五輪書』の合理精神は永く誰にも越えられないのである。
(181~182頁)

――とりあえず、これにて「確認用テンプレート」は終了です。もう一回、映画を見直して、軍師の他の著作を読み直してみたら、ほかにも幾つかの“元ネタ”は見つかるだろうと思います。ただ、あいにくレンタルしたDVDは返却してしまいましたし、再度借りるつもりもありませんし、何よりも作業が面倒くさいので、不徹底ではありますがここで打ち止めです。

ともあれ、「前進ベクトル」とか「騎士は死なないという特権」とか、軍師以外に使わないような言い回しが、そのまんま使われてますからね。「巷間、宮本武蔵をもって禅の一種の達人と見做したがる風潮があるが、事実は、禅などの影響が最小限に止められたが故に、『五輪書』の合理精神は永く誰にも越えられないのである」って文章だって、脚本から抜書きしたんじゃね? って感じですし。

といっても、以上のことはあくまでも手前の印象であって、熱烈な兵頭ファンじゃない人や、熱烈な押井守ファンな人が見れば、「都築のヤローが偉そうに確認用テンプレートとか書いているけど、全然違うじゃねぇか!」って感想を抱くかも知れないので、もうパクリとか剽窃とか盗用とか引き写しとかなんていわないよ絶対(槇原敬之©)。


2012年5月13日日曜日

『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』と兵頭二十八師の論考:その3

以下、『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』で語られていた薀蓄について、『ヤーボー丼』の「附録・研究ノート:『五輪書』にあらわれた日本語的軍事理性を見直す」からのパク……いや、剽……、いや盗……、いや引き写……じゃなくて、ごく客観的かつ公平に見て、「どうも良く似てるナァ」と思われる部分の抜粋です。映画で出てきた順番にあわせて紹介します。

◆『ヤーボー丼』、「附録・研究ノート:『五輪書』にあらわれた日本語的軍事理性を見直す」より

(22)「一人の敵に自由に勝つ時は、世界の人に皆勝つ所也。」
(23)「一人と一人との戦ひも、万と万とのた丶かいも同じ道なり。」

『五輪書』成立の必然性は、原著者が一生を「小者なるもの」で終わる気がなかったところにあった。彼が右のようなことを他の箇所でも何度も口にしているのは、決して己れの剣術に箔をつけようとしてではなく、後段の「万と万との戦い」こそ彼の夢見たものである。晩年、細川家仕官に先立って差出した書状に、住居はどうでも構わないが出陣時の乗換え分をも含めた馬だけは、と念を押して頼んでいることや、死後装束として甲冑を遺言したことを等を考えても、彼の生涯の夢は、戦場の功名によって、大・小名かそれに準ずる「大身」になることだったと断じられる。その夢が彼の操刀法をも、常に自ら馬上になることを念頭に修行させたのである。しかもその基礎ができたのは、彼の左手のできあがり具合から考えれば、年少時代にまで遡る。そんな頃から馬上の立身だけを夢見ていた男にとって、徒立ちでの一対一の斬り結びなどは、むしろ小さな意義しか有しない。彼の「兵法」の主眼もあくまで領国軍政の術にあったことを我々は認識しなければならない。
(183~184頁)

(47)「太刀のとりやうは、大指ひとさしを浮ける心にもち、…小指をしむるに心にして持つ也。」

ここで説明されている事は、江戸時代から今日に至るまで、連綿と道場で教えられている基礎とか聞く。ところで、このような着意は、太刀の柄を両手で握って扱う場合、全く無用なのではなかろうか。素人なりに思うに、長い柄を両手で手と手の間を開けて握り締めるなら、どの指に一番力をいれようと、取り回し勝手に違いは生じまい。原著者によりここで言われている注意は、片手で刀を扱う者にとってのみ、死生に関わる重大着意となるのではないか。なぜなら、刀の切っ先を任意に制動できなければ、自分の乗馬の首を切り付けることになり、それは即落馬につながるから。また万一馬上乱戦中に太刀を取り落とせば、左右からの攻撃より自分の身を護る術はなくなる。少年武蔵は、実戦の場でそうした不覚をとらないよう、右手を徹底的に鍛えようとしたに違いない。だがいくら鍛えても、やはり右手だけ使っているうちにはいつかは疲れて動かせなくなると気付く。馬上出世を一途に夢見る彼は、もし実戦場でもこういう右手の疲労は来、めざましい働きができなくなってしまったらどうしようかと心配した。そこで、その場合はただちに右手の馬上刀を左手に持ち換えて戦い続けることに決めたのだろう。(186頁)

(48)「足のはこびやうの事、…常にあゆむがごとし。」

彼より後の剣法者がみな運歩法をうるさく言うのに比して、原著者は足づかいには全く冷淡である。単に「陰陽の足」、即ち爪先を地から離して一―二、一―二、…と踏んでゆく歩行のステップが、安定していて良い、というのである。足の運びなど知らずとも上体だけで勝つ、と言っているようにも読める。若い時からずっと武将の身分にあこがれ、馬上での切り結びを専ら念頭して練習を積んできた彼は、敵に寄る際は鞍の上なのだから、運歩法を考慮する必要はなく、上体を安定させることだけを考えたのである。
(187頁)

(16)「武士におゐては、道さまざまの兵具をこしらゑ、兵具しなじなの徳をわきまえたらんこそ、武士の道なるべけれ。」

(前略)
宮本武蔵は、慶長以降の太刀が、護身の為の抜き打ちに便利なように薄肉となり反りも弱まった中で、自分の得物には、実戦場で勝つための独自の改良を工夫していた。具体的な記述は無いが、若い時分より木刀をいろいろに削ってみたことは、彼に貴重な経験を与えたであろう。木刀はほとんど無反りだから、重さのわりにリーチが長く、しかも折れにくいものも自在に作れる。
(182頁)

(52)「右へ太刀をはずして乗り、…又敵の打ちかくる時、下より敵の手はる、これ第一也。」
(前略)

常に相手の手を狙うことは、原著者に限らず、真剣で戦う者の当然の着意であった。こちらの切っ先に一番間近で届き易いという事情もあるが、何より戦場では相手は必ず急所を防具で覆っていることを忘れてはならない。
(中略)
さて、馬上刀は歩兵に対しては下から振り上げるように切りかかった方が、馬の前進ベクトルも加わって目標の捕捉確率を増す。原著者は若い時、専らこれを練習していたであろう。(但し当時の日本の馬は身の丈が低いので、曲芸のような刀術は要請されない。)かくして片手で下から「すくひ上げ」るのが、切り下げと同じか、もしくはそれ以上に得意となっていた原著者にとって、両手で、しかも大抵上から下へしか切ることのできない相手の太刀を持つ手を「はる」事は、容易な技だった。
(188頁)


2012年5月12日土曜日

『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』と兵頭二十八師の論考:その2

以下、『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』で語られていた薀蓄について、『あたらしい武士道』からのパク……いや、剽……、いや盗……、いや引き写……じゃなくて、ごく客観的かつ公平に見て、「どうも良く似てるナァ」と思われる部分の抜粋です。映画で出てきた順番にあわせて紹介します。

◆「第1章8節:日本の武士が「鮮卑」に似る理由」より

弩の最大の長所は、訓練のコストが要らぬことです。昨日畑から連れてきた素人の男も、三日訓練すれば一人前の弩手にできます。
(中略)
新兵には、隊伍を組ませたり、フォーメーションのドリルを覚えこませるのがむしろ手間です。
(中略)
対して、弩を操作する腕前は、訓練を中断して十年くらい経ったってそんなに鈍るものじゃないですから、必要があればまた急速動員すればいい。国庫および民生経済にあまり負担をかけません。

これが他方の弓兵や騎兵や槍兵では、なかなかそうもいきません。彼らは訓練を中断すると、たちまちスキルが低下し、有事に動員しても、すぐには使い物にならぬからです。

(中略)

この条件がありましたために、シナではヨーロッパ式な「騎士」階級は生ぜず、ことさらに高い社会身分とは排他的には結びつかぬ「騎兵」のみがあり得ることになったのでしょう。つまり圧倒的な弩徒兵の集中は、後のスイス傭兵隊の長槍方陣と同じで、少数の重装甲騎兵など無力な存在だと人々に思わせてしまった。多数の弓騎兵ならば弩徒兵に対抗できますが、そこまで多数だともはや特権階級ではなく、しかも間違いなく匪賊・軍閥化して、漢人の匈奴を製造するに等しい……。

かくして、シナに「騎士」身分が育たず、後漢のあと、三国~五胡十六国時代から隋・唐にかけまして、満州の狩猟民たる鮮卑系の支配者が相次ぎましたことは、日本の「武士」の誕生にも決定的な影響を及ぼしたように思います。

すなわち、「中原の広域統一王朝にとって≪重装甲騎兵≫は金喰い虫であって、なければないでよい」との価値観。それからまた「≪乗馬本分者≫の本領は騎射である」との価値観。――この二つの価値観が、三国から唐代にかけて大和朝廷にもたらされたのではなかったでしょうか。
(32~35頁)

◆「第1章10節:なぜ日本の武士は「弓馬の道」だったか」より

ところで、一時的ですが、大和朝廷でも隋や唐に倣って、奥州の「ゑびす」の抑え用として、弩徒兵を整備したことがありました。けれども、高温多湿の日本の気候では、複数の素材を膠や腱でくっつけている合成弓の性能劣化が急速に進んでしまいます。倉庫にしまっておいただけでも経年劣化が著しい(平安後期に発達する重藤弓も防湿のための漆塗装が必須でした)。
(中略)
それで国庫の負担の割には、弩が、日本古来の長大な梓弓よりずばぬけた軍事パフォーマンスを示すことはなかった。

というのも戦場が、軍隊の密集機動をとても許さない錯雑地ばかりで、ターゲットも在来馬で、高速機動なんかしないからです。
(40~41頁)

――この後、『ヤーボー丼』からのパク……いや、(略)な薀蓄が紹介されます。で、宮本武蔵と武士道との関連についての薀蓄で、再度、『あたらしい武士道』からのパク……いや、(略)な薀蓄が紹介されます。

◆「第1章20節:近代日本の危うさ」より

次が日露戦争(明治37~38年)で、ここでも白兵戦は起きない予定だったんですが、なんと想定外の旅順要塞攻略戦で、激しい白兵戦が起きてしまった。日本は白兵戦の準備も何もしていないで、火力を恃みに旅順の山頂に近迫した。すると、ロシア兵が塹壕からいきなり一斉に飛び出して、銃剣の槍先を揃えて逆襲突撃してきました。ロシア軍だけでなく、当時のヨーロッパ軍は、こういった白兵戦がじつは十八番だったんですね。

(中略)

そのために旅順では、武士家系の将校だけがサーベルを片手に踏みとどまりましたが、平民を徴募した下士官と兵隊はみんな露兵の気迫に懼れをなし、背を向けてスタコラ逃げ散った。こんな光景が旅順要塞帯のあちこちで繰り返し見られたんです。

(中略)

日本政府としては、早急にこの国民の精神的な不安を取り除かなければならなくなったわけです。ではどうしたら良いか。何か参考になるものが捜索されました。

見出されたスローガンが「武士道」でした。この言葉は、日露戦争前後に日本語になったものです。

読者には意外かもしれませんけど、明治末まで「武士道」なんて日本人は知りませんでした。もちろん文献をあらいざらいひっくり返せば昔々にその熟語が使われていることが分かる(佐藤堅司『日本武学史』は天正頃の初出とす)。しかし日本人の意識の上では少しも一般名詞じゃなかったんです(古川哲史は、江戸期の『常山紀談』には一回も出てこぬと指摘)。

新渡戸稲造の「BUSHIDO」は明治32年(1899)にアメリカで英文で書かれ、米国内のインテリにだけ知られていました。明治34年の足立栗園著『武士道発達史』は、この自著以前に日本国内で武士道の沿革を論じた人はおらず、ただ新渡戸氏の英文があるだけだ、と認めています。

その新渡戸の仕事が遅まきながら和訳されて日本国内で急に刊行されましたのが明治41年です。この出版事業は、日露戦争後の政府の要望に沿っているんです。

宮本武蔵のまともな伝記が書かれて印刷されたのも明治44年で、紛れもなくこの国策の延長上にあります。それ以前は宮本武蔵は剣術家しか知らぬ存在でした。
(72~74頁)

2012年5月11日金曜日

『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』と兵頭二十八師の論考:その1

以下、『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』で語られていた薀蓄について、『あたらしい武士道』からのパク……いや、剽……、いや盗……、いや引き写……じゃなくて、ごく客観的かつ公平に見て、「どうも良く似てるナァ」と思われる部分の抜粋です。映画で出てきた順番にあわせて紹介します。

◆「第1章17節:中世騎士に「戦死」はあり得ず」より

しからば、ほとんど一財産を傾けて、頭のてっぺんから爪先まで金属で覆ってしまって、矢の一本も立つことがなくしたあのアーマーと、それを載せてなお進退自在な良馬(この輸入および複数頭の意地だってもちろん身上潰しです)を揃えて、西洋の騎士たちは何を達成しようとしたのか?

ここがおそらく重要なところで、それはまず「騎士は戦死しない」という特権の確保に他ならなかったと思われます。
既に十字軍の中から騎士の捕虜が多数、出ています。彼らは身代金を払って生還しました。
(中略)
他方で、アーマーを着用せず、馬に乗らぬ十字軍の下士卒は、身代金を払えないので、どんどん殺されたり、命をとりとめても奴隷として売られてしまった。

アーマーに加えて、固有の紋章もまた、「自分は身代金を支払える領主である」ことの戦場でのサインになっていました。

それから、西洋の騎士が、弓やクロスボウを、配下の歩兵隊にはさんざん使用させても、みずからは決して用いなかったのはなぜだったのでしょうか?

それらの飛び道具は、手加減というものが利かず、当たれば騎士も無差別に殺されてしまう兵器だったからです。騎士同士は殺しても殺されてもいけなかったのです。

そこで、棍棒(メイス)や殻竿(フレイル)のような片手武器が騎士たちにはいちばん好まれました。そういうもので敵の騎士の兜を打撃すれば、相手は脳震盪を興して倒れますけれども、死にはしません。ボクサーが厚いグラブをはめて人の顔を殴るようなもの。生きたままで降参させられる。他方もし敵軍の雑兵や、領地の反乱農奴を相手にする場合には、その棍棒で、十分な殺傷力を発揮することもできる。

ですから西洋騎士の日常の武術訓練は、弓射や徒歩の早駆けではなく、専ら、アーマーの重さに負けずに大剣や斧などを延々と振り回し続け、馬を操り続ける、筋力トレーニングだったに違いないのです。
(58~60頁)

◆「第1章19節:第一次大戦の下地」より

第一次大戦が勃発したときの英国のように徴兵制が無かった場合でも、大学生(ほとんどが上流階級に所属する男子)はこぞって志願して、短期訓練にて初級将校(少尉)となり、じっさいに、労働者階級からあつめられた下士卒よりもはるかに高率で塹壕戦の華と散ったのです。

この大学生を供給した中等教育機関が、近代のパブリックスクールですが、どうもパブリックスクールは、少し「騎士幻想」を育てすぎていたかもしれません。

(中略)

ナポレオン戦争までは、士官が蛮勇を発揮してくれることに不都合はありませんでした。むしろ歓迎すべきことだったんですが、ボルトアクション連発ライフルと機関銃が普及していました第一次大戦では、これが戦術的にすっかり裏目に出た。累々たる士官の死骸の山がいたずらに築かれてしまい、英国では、肉体的・精神的に最良の若者が、一世代分、消えてしまったのであります。現代戦では、臆病は一つのスキルなのだ、かつての騎士の精神は戦車のアーマーを借りないと発揮できないのだとヨーロッパ人が反省したのが両大戦間期です。

貫通力の高いライフル弾を矢継ぎ早に発射できるようにした19世紀後半の銃器の工夫、これによって、「騎士的な振る舞い」が現代の戦場では途方も無くリスキーになったと、遅まきながらに自覚された。その問題意識から、かつて戦場では不死身の存在に近かった中世騎士を再現しようとする合理的な努力が英国では孜々として重ねられ、幾つかの重装甲の戦車が戦間期に開発されることになったのはさすがというべきでしょう。
(67~68頁)

◆「第1章7節:「弩」は東西騎兵の性格を分けた」より

遊牧民にも翻弄されず、逆に押し返せるだけの、つまりは敵よりも十分に多い数の弓騎兵をシナ王朝側がなんとか準備し、北狄にぶつけようとするのは、GDPの歴然たる差からして、不可能ではなかったでしょう。しかし、農耕民の生活スタイルと何の関連もないその非生産的な大騎兵集団を、常時維持し続けることは、とても非現実的で不可能なことでした。

だいたい、そんなに多数の人と馬、その元気満々の生産力資源を、開墾や商業に動員せずに平時にずっと徒食させておくことがいかにも税金の無駄でしたし、辺塞で閑居した騎兵部隊が匪賊化または軍閥化して逆に中央政府に反抗するかも知れません。

中央政府としては精鋭の多用途騎兵をむしろ機動近衛予備軍として首都近郊にだけ控置したいところですが、それだと国境の八方から隙を窺う遊牧民軍に攻撃のタイミングのイニシアチブを容易に握られてしまうのは自明。――もう大ジレンマです。

この難問をシナに於いて解決してくれたのが「弩」の発明でした。前述のように、弩が紀元前4世紀のシナで発明されたことはほぼ定説であります。
(31頁)

2011年5月20日金曜日

<絶版兵頭本>紹介@日本人のスポーツ戦略:その5

・古代5種競技の最終競技となるパンクラチオンでは、チョークを逃れるための指折り、指股割きなどはごく当たり前に行われた。スパルタでは目潰し、噛み付きOKで、記録されている最も極端なケースでは、指を肋骨の間にひっかけて皮膚を割き、内臓を掴み出してしまった選手もいたらしい。『曾我物語』の「角觝」(すまふ。相撲のこと)のシーンでも、「肋骨二三枚掴み破りて捨つべきものを」という台詞がある。

・大昔の神前試合は命がけの再試合のきかぬ真剣勝負として行われたのだろう。それも文明化とともに死亡率を減ぜられ、一方では闘牛や御柱祭のような「熱中行事」(まじめにやれば死にかねないが、自主的に危険を回避できるイベント)に変わり、他方では鍛錬中心で平時の真剣試合を避ける「武道」になった。

・グレコローマン式のレスリングは、成人同士がいくら全力を尽くしても、それで大怪我することは考えられない。しかし、戦場で敵兵にフルネルソンをかけたり、相手の肩を地面に押し付けたところで、敵兵は降参することなどなく刺し殺そうとするだけだ。そこからたとえば「剣道は重さ1.5kgの刀で敵を斬ろうとする武道なのか、それともフェンシングよりもさらに15g軽い485gの竹刀で当てっこするスポーツなのか」といった悩み深い論争も生ずる。

・「もし、身長190cm前後で、体重が最低130kg以上の、筋肉自慢の大男同士が、思い切り押したり突いたり捻ったり、絡み合ったまま土俵から転げ落ちたりして次々に本気で争ったなら、鍛えた者同士、死にはせずとも、負傷者は続出するのではなかろうか。これを15日間も続けられる今の大相撲が実は『イカサマ』をやっているのではないかと疑われるのは、自然である」(140頁)

・佐山聡氏の『ケーフェイ』(1985年)によれば、レスリングシューズで蹴ると、蹴ったほうも3日間は痛みが引かない。よって、選手が常に良いコンディションで格闘技の試合を見せることのできる最短サイクルは4日に1回くらいがギリギリであるという。日本人キックボクサーの証言によれば、1週間で痛みが取れて戦意が回復するらしい。ただし、普通は10日、たまには20日経たないと治らないこともあるという。

・若き嘉納治五郎はチビだった。予備校時代、同窓生に暴力的にからかわれ、「チビでも強くなりたい」というルサンチマンから東大1年生の彼をして柔術家の門を叩かせ、後の講道館と「柔道」を生み出した。もし、嘉納が昭和13年に死なず、昭和15年に東京オリンピックが開催され、新種目として柔道が行われたら、階級別制の競技としてスタートしなかった蓋然性はあるだろう。

・「おそらく嘉納は、海外に柔道が拡散し始める途中で、すでに『日本柔道の敗北』を予期できたはずである。要素を分解すれば、柔道は単なる着衣のレスリングに近付く。チビの嘉納が、柔道を真面目に学んできた身長198cmのオランダ人による柔道界制覇という必然の結果を見せつけられずに逝ったのは、幸せであった」(154頁)

・セオドア・ローズヴェルトも単純な柔道ファンではなかった。彼の懸念は、ボクシングやレスリングだけで柔道に勝てないなら、大統領としてその対策を考えねばならないと思ったのだ。半年におよぶ観察と実験の末、白人と日本人には体格差がまだあるので、米国人が柔道を覚えずとも、兵士になったとき不利になることはないと結論した。

・近代とは、数学を専攻するような頭脳的エリートが、大学で自発的にハードなスポーツに取り組むことが推奨される時代。ラムズフェルドもチェイニーも東部の一流大学でレスリング部に所属していた。チビの夏目漱石は、近代の全てを理解しかけていたが、ここだけは掴めなかった。

・「『K-1』の最大の貢献は、東洋人は打撃系の無差別級試合では、いくら長年まじめに道場で努力を重ねたところで、白人や黒人の身長190cmの若い用心棒に勝つことは不可能なのだよと、日本の若者に冷静に納得させてしまったことであるように、この私には思える」(166頁)

・剣道/剣術が、幕末以来の近代日本のサバイバルを助けた3つの理由。

・一つ、日本の政府要人の姿勢と目つきをよくした。外国人はその目つき物腰を見ただけで、ナメてかかることができないと悟った。能力主義は薩長だけの専売特許ではない。

・二つ、日本の知識人の肚を据えさせた。勝海舟、福沢諭吉も一見、飄然としたイメージだが、腕に覚えがあるからこそ脅しに屈せず、万事に心の余裕も持てた。

・三つ、最前線の指揮官に不屈の攻撃精神を与えた。小隊を叱咤して敵陣に突撃させる若い少尉~中尉が、もし早くから剣術を捨てていたなら、日本の敗戦はあと数十年早かったろう。そこからの復興は未だに不可能だったかも知れない。

2011年5月19日木曜日

<絶版兵頭本>紹介@日本人のスポーツ戦略:その4

・近代オリンピックに関与する唯一のアマチュア集団は、「観客」と「マスコミ」。古代ギリシャのオリンピックは、テニスの4大大会やサッカーW杯に近く、そこで見物している観客は全員競技をよく知る見巧者だった。場合によっては、だらしない選手の代わりを務めてやろうという、競技者と一体化しているような見物人が観客だった。

・一方、近代オリンピックは、ふだんは全く興味も予備知識もない競技スポーツを観戦しようと、突然、何億もの「見物のアマチュア」がテレビの前に集まってくるイベント。かかる近代オリンピックで尊重されるべきは、少数のプロではなく圧倒的多数の「見物のアマチュア」であろう。

・「この愚かな大衆とマスコミに、虚構のスポーツドラマをあてがうことで、金を稼いではならない。それこそは、クーベルタン男爵に対する最大の裏切りである」
「それには、たった1項の規定を新たに加えるだけでよかろう」
「『1人の選手は、1つの種目について、生涯に1度だけ、五輪にエントリーすることができる。ただし、前回のエントリー大会後に国籍が変わり、新国籍の取得後10年以上経ている者は、同一種目への生涯2度のエントリーが許される』――」(104頁)

・これによりオリンピックに登場する選手は全員ニューフェイスになる。観客も、五輪選手以外にもっと優れた選手が他にいるのだろうと知ることになる。ならば、金メダルはプロ選手が生涯かけて追い求めなければならない目標ではなくなる。生涯に1度の出場だからこそ、参加したことの意味はとても大きくなる。下位の者も、参加したという経歴だけで世界から注目されるだろう。

・全国高校野球大会というシステムが良くないと、立花龍司氏は警告している。コーチが16歳かそこらでの過早な仕上がりを求め、少年の身体と技量に破壊的でとりかえしのつかぬ作用を及ぼす結果、アメリカ人やキューバ人のように20代以後に大成できないという。
*都築注――現在では半分正しく半分間違っているように思える。沖縄水産の大野倫(イチロー世代)が“壊されて”以降、選手の故障や連投に対するチェック(=連盟、ファン、後援者からの監視)が厳しくなった結果、少年に無理をさせる風潮は少しずつ正され、現在では「高卒入団時にぶっ壊れていた」ようなことはほぼなくなった。仕上がりの早い高卒即戦力の選手がかつてほどおらず、選手の寿命も延びているように思える。かつては「高卒即戦力選手は30代前半、それ以外は30代後半で引退」というのが普通だったが、いまでは「30代後半は働き盛り。40代で活躍している選手も珍しくない」状況にある。もっとも、甲子園優勝投手の選手寿命が短いのは昔もいまも同じ。松坂大輔投手は今年で31歳だが、このところの不振は、スランプや体重増加など以上に「単純に選手寿命が尽きかけているのでは?」と疑える。

・体格の差がパフォーマンスにさほど影響を及ぼさないように見える競技スポーツの一つに、射撃がある。日本人として国際スポーツ大会に挑み、優勝した最初の日本人も射撃の選手だった。「村田銃」を発明した薩摩士族、村田経芳だ。銃器を用いる趣味は、特権階級のものであってはならないというのが、村田がスイスの国民皆兵制度を視てきてからの確信だった。

・村田は「村田銃」の改良・普及に意を尽くすが、これは商売を目的としたわけではない。安い近代ショットガンを田舎に普及させることが、自ずと国民の射撃訓練になり、スイス流の国民皆兵制度に近づくと考えてのことだ。結果、「村田銃」は1950年代までマタギが使うほど普及したが、銃による狩猟が低所得の大衆に根付くことはなかった。

・「これはある老舗の銃砲店主からうかがった話だが、戦前は所得に応じた狩猟免状があり、胸につけるバッヂの色でクラスを区別していた。最も納税額で上位のクラスの者だけが、所謂『旦那猟』ができるという仕組みだったそうである」(124頁)

2011年5月18日水曜日

<絶版兵頭本>紹介@日本人のスポーツ戦略:その3

・鳩山一郎の『スポーツを語る』(昭和7年)によれば、いま、アメリカの大学アメフトで年間20~30名が死んでいる。タフト大統領の息子もその一人だったが、タフト曰く、「年にたった30名の犠牲でアメリカ精神が養われているのは安い」と。米国にサッカーが広まらなかったのは、サッカーがカトリック文化と結びついているように見えたからという見方もある。

・日本のスポーツが大衆のものになったのは大正時代のこと。日本一を決める全日本選手権大会は、ゴルフが明治40年にアマ選手権を開催したのが最初。偉い人が「天下一」の称号を授けたり、庶民が勝手に「番付表」をつくったりするのではなく、オープンかつ公正な試合で「日本一」を決するという発想が近代的。

・なぜ、サッカーではなく野球だったのか? その理由について。一つはボールをどこまでも蹴っていける土地がないこと。平地のことどとくが水田か畑で、誰も自由に立ち入れない。いま一つは多雨であるため、平らな荒地がないこと。

・かつて関東の台地では、2.5mのススキが生い茂っていた。和弓が上下非対称となる照準技術上の不利を忍んでも2mもある長い道具として受け継がれてきたのは、狩猟の際、葦のあいだから先端が出て、仲間の合印となる便宜が大きかったからだろう。

・もちろん土地や気候だけが全てではない。中谷重治の『体育運動の起源と発達』(昭和4年)によると、野球は明治11年の日本人にとって、初めて野外&団体で行うゲームだった。それまでは武道の稽古か狩猟、神事しか集団スポーツはなかった。

・「チーム全員のポジションと役割が幾何学的・システマチックに決まっている舶来の遊びを見て、当時の日本人は『これこそ学ぶべき近代だ』と思ったのだ。われもわれもとボールを奪い合うような他の舶来スポーツは、とても近代的とは見えなかったのだろう」(61頁)

・支那事変直前に職業野球がスタートしたことは幸運だった。戦時中、他の享楽的消費が規制されていたおかげで、野球人気はプロ・学生とも異常に盛り上がったからだ。支那事変が起きなかったとすると、昭和9年に本格的にスタートしたアメフトが、一部の大学に根付いたかもしれない。

・『巨人の星』はタイ・カップのエピソードと重なるところが多い。「子ども時代のルールはぶっつけあり(=魔送球)」、「スライディングキャッチをするので親指はいつも血まみれ=血染めのボール」、「這ってホームイン=花形が大リーグボール1号を打ったとき」、「逆スピットボールで、バットは必ずその下を空振りしてしまう魔球ナックル=ダイリーグボール3号」。梶原一騎は、大リーグをよく取材してストーリーを組み立てていたのでは?

ビーンボールと死球についての提案。「投球が打者を直撃したとき、打者は一塁への進塁ではなく、本塁打を1本放ったのと同じ扱いを受けるようにすることである。打者が投手のせいで稀に重傷を負うリスクと、打者に球を当てれば必ず本塁打を献上したのと同じことになるピッチャー側のリスクとは、何シーズンかを通して均せば、つり合う。したがって、乱闘の必要はなくなる。この新ルールの下でもビーンボールを投げてしまうような投手は、自分の成績やチームの成績をおそろしく不利にするから、すぐに起用されなくなる」(77頁)。
*都築注――いかにも軍師らしい提案。「死球全部ではなく危険球(=頭を直撃する死球)を対象に導入して、あわせてマウンドを数十cmホームベース寄りに近くする」というルールにすれば、より適切ではないかと。マウンドをホームベースを近づけるのは、危険球ルールの厳罰化によりインハイの投球が減り、より打者が踏み込みやすくなり、結果として打高投低になってしまうことを防ぐため。

2011年5月17日火曜日

<絶版兵頭本>紹介@日本人のスポーツ戦略:その2

・戦時中の陸軍や1960年以前のスポーツ界では、「汗をかくことは疲れることに繋がる。よって水を飲むのを我慢して汗を出さないのが良い」と短絡的に教訓化されていた。その淵源は、明治30~40年代の日本陸上長距離界の「脂抜き」という練習理論まで辿れる。

・「脂抜き」とは、日常において水を摂取せず、練習の走り始めは夏でも厚着して発汗を促し、走った後も水を飲まないというもの。これを何週間も続ければ体が軽くなり、楽に走れると考えられていた。最初の近代五輪マラソンにエントリーした金栗四三もやってみたが、3日目からは体温が上昇して冬でも冷水を浴びねば耐え難く、4日目で断念した。

・一方、昔から真夏の沖仲仕や造船工は、塩をなめながら作業をしていた。水も飲むが電解質も補給しているので全然問題ない。こうした知識や体験が、選手やコーチにあったならば、水を飲まないというオキテの合理性を疑うものを現れたろう。アメリカスポーツ界では、1960年代後半にはこのオキテから抜け出した。しかし、日本では80年代になってもオキテが存在していた。

・「『勝つために何が最善か』の情報は年々更新されていくのに、日本のスポーツ界では、それにリアルタイムで対応することがなく、なぜかコーチが去年と同じ練習を続けさせている。その間に、外国の選手が新知識で武装を済ませてしまうのだろう」
「おおよそスポーツのプロは読書量が足らず、読書量の多い者はスポーツでの成功を目指さない。だから大昔に誤りを正されているべき迷信的なメソッドが、半世紀以上も代々伝承されてしまうことも、スポーツ界ではよくあるのだろうと想像ができるのである」(18頁)
*都築注――これはプロ野球界においては全く正しい。原辰徳は新人時代、スポーツライターの玉木正之氏から、「原君は本を読まないの?」と訊かれ、「目が悪くなりますから」と答えている。これは原が特別なのではない。ほとんどのプロ野球選手がそうなのだ。実際、新幹線の車中で小説を読んでいた桑田真澄は、それだけで「インテリ振りやがって」と悪口を言われていた。

・リラクゼーションの単語と意義が日本に伝わったのは、60年代以降にゴルフが普及したことによる。同時に五輪強化策として外人コーチが来るようになった。日本の場合、力闘しているように仲間に見えることが大事で、リラックスによる最速、最効率持久ができない。

・日本型農村では、一枚の田んぼに無制限の労力を注入することが各人の責務だったから、それを格好でうまく示してる限りは、結果が大不作となっても周囲は許す(=だからリラックスできない)。ところが筋肉疲労を軽視してはいけないのだという練習理論が権威を持つと、今後は過剰マッサージの問題が出てきた。

・「人間のスポーツ選手のトレーニング法の発展には、軍馬や競走馬の調教で得られた知見が、直接的に貢献している。何世紀にもわたる馬の実験と観察なくして、今日のような超人的記録があり得るのかどうかは疑わしいのである」(32頁)

・大正5年から馬政官を拝命している石橋正人少将が、昭和6年に上梓した『競馬読本』には、「かつて3マイルレーサーに連日4マイル以上の走りこみをさせていたが、いまやそれも旧式トレーニングになった」とある。

・石橋によると、今は実距離以上の走りこみはさせず、むしろ1マイルの短い練習をさせ、決して馬を疲れ切るようなメニューは組まず、ようやく本番直前に実距離をレース形式で走らせて状態をピークに持っていく。しかも隔日に軽い調整運動だけの休養日をはさむようにする――という。人間のアスリートのトレーニング理論よりも30年先を行き、実績を残しているのだ。

・発汗ウェアを着てランニングする減量法も、19世紀から行われている競馬の調教の応用に他ならない。そもそもTrainingという英語自体が、馬を筆頭とする牽引畜類の調教を意味していることも、改めて言うまでもないだろう。

・イギリスでは、1904年に禁じられるまで動物レースに興奮剤を使うのは当たり前だった。アメリカでは1970年になって、競馬に薬品を使うことが制限されたらしい。つまり、1960年代に、馬にクスリを使わないようになると同時に、人間のアスリートには広くクスリが使われるようになったのだ。

2011年5月16日月曜日

<絶版兵頭本>紹介@日本人のスポーツ戦略:その1

●基本データ
・書名:『日本人のスポーツ戦略――各種競技におけるデカ/チビ問題』
・著者:兵頭二十八
・発行:四谷ラウンド
・初版発行:02年8月15日

●目次
◆第一章:陸上で有望なのはマラソンだけ?
◆第二章:すべては競馬から始まっている
◆第三章:野球という結論
◆第四章:それぞれに特異な「フットボール」
◆第五章:「五輪プロ」さえ排除すれば採点競技はマトモになる
◆第六章:射撃ならチビでも勝てる……!?
◆第七章:だったら格闘技で白黒を付けようじゃないか

――このあいだこの動画を見て、この本のことをふと思い出しました。

中国少林第一武僧被美国警察一拳击倒! *本編は6:15から。決定的場面は9:35くらいから。

少林寺の名人が白人警官にKOされる動画なわけですが、結局のところ「チビ」は「デカ」に勝てないのか? と思い、改めて再読してみたんですよ。

「プロスポーツ選手でもない私が書いたものである以上、本書は日本の現代スポーツ論の決定版では全くない。本書を、よほど批判的に読まないと、貴方の明日の試合のための『戦略』などは生じもしないだろう」
「が、私は十年も前から、インターネット時代に活字に印刷して読者から代金を取っても許される情報とはどんなものかを考えてきている。だからここに書いた論説は、この書籍を貴方が書店で購入する費用と同じ費用を以て、他の媒体から得ることはできないことを、このまえがきにおいて予言できる」(4~5頁)

と断っている通り、その内容には正直首をかしげるところも多々あったりする――と、偉そうに書けるのも、軍師にとって守備範囲外であるものの手前にとってはメインフィールドである野球について取り上げているから――わけですが、そういった瑕疵を軽く凌駕するだけの興味深い指摘満載の本です。

追記:さすが東スポ! こういう記事は絶対に手前を含む素人には書けません。マジな話、スポーツマスコミの鏡ですよ。

2010年12月25日土曜日

<絶版兵頭本>紹介@『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』:その4

◆滋賀県
・釈迦岳:「釈迦岳・比良索道リフト」は、今回の取材でベストワンの「特殊索道」で、誰にも推薦できる。夏山観光リフトの中で最高に楽しめた。経路が適度な長さ(片道13分)、深い谷を何度か越え、尾根を数度越え、傾斜が数度変わる。高度が上がるにつれ、シダ植物の世界から選任の清遊する境界に連れて行かれる。振り返ると琵琶湖だ。

・賤ヶ岳:賤ヶ岳七本槍が有名だが、実際に具足をつけて長槍を担いでこんな急な山の中を機動できるはずはないと、現地に来れば誰にでも実感できる。いまのように登山道が整備されていたとしても、集団で整斉としたかけひきはまず無理だったろう。よって、たとえれば、数百人の猟師と数百頭の熊のにらみ合いが、あたり一帯の藪の中で広範に進行したのだと私には信じられた。

◆静岡県
・日本平:都道府県の持つ観光資源の「有望さ」は、そこに現在稼動している旅客索道ならびに遊覧船の数に比例する――という“法則”が、今回の取材で見えてきた。静岡県には存外に索道が多くてびっくりした。主なものを見て回るだけでも4~5日は必要だろう。

・熱海:昭和9年の「丹那トンネル」の開通までは、東京からの鉄道の終点だった。つまり、近代交通的にはフロンティアライン上の、不便な温泉場だった。これと共通した土地環境を、昭和前期以前の日本の作家たちは常に求めてやまず、好んで小説の舞台に見立てようとした。近代交通上のフロンティアラインの消失と、支那事変の大動員で日本人の共有できるフロンティアが一挙に国外に拡張されたのは、ほぼ同時期のこと。爾後、日本人作家が落ち着いて小説などを考えられる静止空間は、どこにも探せなくなった。なお、「秘宝館」は、昭和32年以前の「歓楽地」の残滓であって堕落でも何でもない。

◆栃木県
・丸山:索道は静かな輸送機関なのだから夜間にも運行できるのではないか。また、こんな山の中にこそゲームセンターがあったらいいと思っている。つきあいで温泉場にやってきた精神的に若い元気な客の中には、旧態依然な山間の温泉街の退屈さに閉口している人が必ずいるのだ。この客層に退避場というか、暫時の居場所を与えてやることができるだろう。

◆長野県
・横岳:奈良朝いらい日本の修験道者の過半が、誰も踏み入ったことのない奥山の大自然の奇観を自分だけが見たというその体験を、里に降りては誰彼かまわず吹聴せずにおれなかった。大多数の山伏はすでに俗人だった。近代日本の登山者も同じく俗人。ここを誤解していると、日本の自然破壊は止めどもないだろう。

◆山形県
・蔵王山:なぜドル箱の観光地になり得ているのか? その理由は暑さにあるのではないか。山形市はフェーン現象の起きる内陸の盆地だ。梅雨前半からちょっと晴れると、その日の気温がすぐに上昇して30℃を超える。普通、フェーンの空気は乾燥しているのだが、山形市のはなぜか湿っている。体感上での耐え難さは相当なものだ。この汗だくの山形市からバス代860円で行ける場所に、確実に5℃は温度の低い温泉高原があり、そこから数千円を出してロープウェイに乗れば、市内よりも10℃は低くなる。まことに幸運な暑すぎる町と寒すぎる山のコンビネーションではないか。しかも山の中腹に温泉があったことで、古くからの山岳信仰とレジャーが直結できた。
(都築注:兵頭師は、自ら原作したマンガ『ヘクトパスカルズ』で、フェーン現象を扱ったサスペンス「File3:予報の鉄人」を書いている)



2010年12月24日金曜日

<絶版兵頭本>紹介@『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』:その3

◆大阪府
・万博公園:近代日本においては早くから近畿地方を筆頭とした西日本に、あなどり難い遊園地文化、イベント先取の伝統があった。かつて名古屋市が、そしていま大阪市が将来のオリンピックやら何やらを誘致しようとしているのも、こうした下地に想い致すと、住民に抵抗がないことがわかる。

◆岐阜県
・金華山:ロープウェイ山頂駅から岐阜城(コンクリート製のレプリカ)までは、普通の足で5分以上、老人だと10分くらい石段のある坂道を歩く必要がある。小雨プラス木の葉しずくで傘が手放せず、気温も山頂部で25℃以上ある感じでどうにも参った(訪問は6月下旬)。このくらいの気候でなければ中世に多収穫の米作はできなかったのだろう。『少年倶楽部』の名作選の中に、岐阜城かどこかの門の近くまで馬で駆け上った戦国武士の話があったが、この急な山を滑らず潰れず走ってくれた馬なんて当時いたわけがない。自身山歩きをせぬ現代の歴史小説家はよほど自戒が必要だ。

◆熊本県
・西阿蘇:阿蘇山の名は、長野県の浅間山などと語源が同じで、火山を意味する古代の日本語の転訛らしい。4線交走式は3線交走式と同じようなつるべ駆動だが、太い支索を2本倍加したもの。有体にいえば「万々が一、支索の一本が切れたとしても、ゴンドラは落ちません」と注文主や利用者に向かって強調したシステム思想。戦後のワイヤー技術では、支索1本でも安全係数はたっぷりすぎるほどで、強風などの原因で切れることは考えられない。外国の戦闘機が超低空飛行で支索を切るような(チェルミス・ロープウェイ切断事件のような)がアクシデントあったとすれば、4本だろうが何本だろうが無駄だろう。

◆群馬県
・草津・白根:日本で最初のスキー用リフトは、昭和23年に草津・天狗山に設備されたもの(ただし、札幌・藻岩山と志賀高原・丸山には米軍人用のものがあった)。日本の積雪地方にこれ以後、スキー用リフトが急速に普及したことの文化的影響は、革命にも等しかった。いまのスキー場は、だいたい昭和32年以前は、単なる「雪の降る温泉地」に過ぎなかった。その頃まで積雪地方の湯治といえば、客は旅宿に降り込められたまま、ひたすら「寝ぐい」をするだけだった。スキーリフトの出現は、雪国の冬の退嬰的気分を一変させた。有史以来はじめて、日本の冬は、することのないシーズンではなくなったのだ。リフトが新しいスキー場の開発に道をひらき、それで北国のたくさんの田舎から「出稼ぎ」をなくした功績も、強調し尽くせないものがあろう。昭和30年以降に生まれた現代日本人には、かつての雪国を理解する情緒的基盤はハナから失われているのである。

◆埼玉県
・三峰山:車内持込禁止手回り品の注意書きに「死体」とある。誰が死体を持ってロープウェイに乗ってくるのか? といぶかしんではいけない。三峰ロープウェイは戦前からある古い路線。この掲示内容も古い伝統のあるものと推量する。江戸時代、幕府の設けた関所では、特別な手形がない限り、死体が通過することを禁じていた。そういう名残が戦前の日本の駅には残っていたのではないか。
(つづく)

2010年12月23日木曜日

<絶版兵頭本>紹介@『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』:その2

◆愛知県
・三谷温泉:昭和50年に廃止。1960年代の急激なモータリゼーションにより、多くの庶民が少しでも遠い場所にレジャーを求めた結果、この種の安易なアミューズメント用の索道は集客力を失ったのだろう。同じ現実が昭和40年代、全国一斉に観光索道を淘汰している様を、読者は本書によって確認されるだろう。

・内海フォレストパーク:近年流行の「単線自動循環式」。リフトと似ていて支索と曳索の別がない。1本のワイヤーが常に一方向に走行し、リフトは発駅でワイヤーを掴み、着駅でワイヤーを離す。利用客の繁閑に応じやすくコスト削減も容易だが、人間をブロイラーのように捌いてやろうという効率思想むきだしのシステムであるため、行楽客に与える非日常的なインパクトは、「タメ」のある交走式ロープウェイや客に危険分担を求めるチェアリフトよりも劣る。

◆青森県
・十和田湖:遊覧船のスピードについての一般論。普通の船底の形をした船で12ノット以上を出そうとすると、造波抵抗がみるみる大となり、20ノット以上は燃費がむちゃくちゃ悪くなる。経済性を重視するタンカーは12~13ノットしか出さない。水の表面を滑走するモーターボートや、普通の船底でも特別な需要があるのでペイする冷凍高速コンテナ船でないかぎり、遊覧船は無闇にスピードを競うことはない。また、あまりにスピードを出すと、水飛沫や乗客の転落防止への対策が必要となり、オープンデッキを制限しなければならなくなる。

・八甲田山:一日で十和田湖と一緒に満喫するのは無理だろう。理由はバスのダイヤが、観光地に客を入り込ませるためだけに作られているため。だから同じ日に一つの観光地から離脱して別の観光地に向かうためには甚だ不便だ。全国の低迷中の観光地に、この通弊がある。

・岩木山:日本の観光運輸業のほとんどすべて、そして、民鉄の半数以上は、近代以前から続いている山岳宗教の需要がそこにあったからこそ起業されたのだ。中世から民衆は、関銭をとられても参詣には欠かさず出かけようとした。日本全国、山岳宗教のない場所のなかったことは、本書を通読されればわかる。

◆石川県
・山中温泉:昭和33年4月1日より施行された売春防止法は、日本各地の温泉地が大転換する契機となった。それ以前の温泉地は「歓楽(=セックス)」がセットになっていたためだ。売春防止法施行前の昭和20~30年代には、純文学の大作が多く生み出されていた。およそ「歓楽」で金が動くところには暴力団などが入り込んでくるもの。そんな反省から、多くの温泉地はお上の指導により、「健全な観光地」に脱皮しようとまじめに考えた。このときに引き起こされた伝統破壊がどんなものであったかは、100年くらい経たないと正確に把握できないだろう。この「健全な観光地」への転換策として、山中にはロープウェイが開設された。

◆岩手県
・安比高原:東北と沖縄と比べてどっちが悲惨なのか? 沖縄の若者はいったん都会に出ても、必ずUターンして沖縄で生計を立てている。それが可能だからだ。東北では中高年を過ぎても、一定数の男子は毎年冬に出稼ぎに行かねばならない。この東北人の運命もスキー場ができた土地だけは良い変化が認められた。スキー場のある地元民だけは出稼ぎにいかずに済んだのだ。
(つづく)

2010年12月22日水曜日

<絶版兵頭本>紹介@『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』:その1

●基本データ
・書名:『日本のロープウェイと湖沼遊覧船――Japanese Ropeways and Excursion Lake-boats』
・著者:兵頭二十八
・発行:教育システム
・初版発行:00年11月10日

●目次
◆愛知◆青森◆秋田◆石川◆茨城◆岩手◆愛媛◆大分◆大阪◆岡山◆香川◆鹿児島◆神奈川◆岐阜◆京都◆熊本◆群馬◆高知◆埼玉◆佐賀◆滋賀◆静岡◆島根◆千葉◆東京◆徳島◆栃木◆鳥取◆富山◆長崎◆長野◆奈良◆新潟◆兵庫◆広島◆福井◆福岡◆福島◆北海道◆三重◆宮城◆宮崎◆山形◆山口◆山梨◆和歌山

――数ある兵頭本の中で最も入手し難い“幻の書”。発刊時には半公式ファンサイトのような素晴らしいサイトもなく、兵頭師もネットデビューしておらず、『正論』連載のような定期的に情報を発信できる連載もなかったことから、多くの兵頭ファンは発刊されたことにも気づかなかったのではないでしょうか。手前は発刊1年後に同書の存在を知り、都内大手書店の全てを回ってみたものの、その頃には店頭になく取り寄せもできなくなってましたorz。「Yahoo! オークション」でもほとんど出回らず、出回ったら出回ったで高く、おまけに図書館にも置いてないので、発刊してしばらくのあいだは表紙すら見ることができませんでしたからね。いまはamazonで買えるようになっているけど、兵頭本でも1~2を争うほどのプレミアがついている状況は相変わらず。

そんな“幻の書”をどうやって入手したのか? というと、06年にとある団体のボランティアに参加する機会があって、そこの事務所の本棚を何気なく眺めていたら背表紙がちょっと日に焼けたこの本があったわけです。で、「死ぬほど欲しいものが目の前にある&こっちは手弁当で手伝っているんだから、ちょっとくらい余禄を得ても借りに思う必要はない」ということを素早く算段したうえで、「この本、読みたかったんですよぉ! ちょっと……じゃなくてずぅ~っと貸していただけませんか?」と頼み込み、ガメてきました。

『日本の高塔』と同じくらいに写真がメインな構成で、ミリタリー関連のハナシはほぼゼロ。表紙、裏表紙は以下の通り。帯のコピーは「本邦初の全国版カタログが完成! 北海道から九州までロープウェイ、観光リフト、湖の遊覧船を集大成!」


2010年11月22日月曜日

<絶版兵頭本>紹介@『日本の高塔』:その2

・韮山「反射炉」:現存する幕末の反射炉では江川担庵が築いた韮山のものが最古。幕末の反射炉は全て同じ一冊の蘭書を参考にしていたため、サイズは全国どこでも同じ。その煙突高は16.5mに揃っている。日本に煉瓦が普及しなかった(詳細は『イッテイ』より)ことにより垂直大煙突が作れず、よって煙突も作れなかった。これが日本の工芸、建築素材に及ぼした影響は小さくなかったのではないか。今日の銭湯の煙突は大正時代以降のもの。

・横浜マリンタワー灯台:多くの「灯台本」には、日本一高い灯台として出雲日御碕「ひのみさき」灯台であると書いてあるが、海上保安庁で毎年刊行している『灯台表』を見れば、どれも不正確であることがわかる。電波灯台ではない発光灯台としては「横浜マリンタワー灯台」が日本一なのだ。日本一標高の高い灯台は兵庫県の日本海岸、余部「あまるべ」埼灯台。もともと日本の近代灯台は沿岸監視の機能も期待されていたが、北朝鮮のスパイ、人攫い、密輸犯がここまで横行するようになったのなら、高塔式の沿岸監視レーダーを、空自レーダーの死角になっているところに設けるべきでは?

・硫黄島「ロランCタワー」:「ロラン(Long-range Radio Navigation system)」とは、電波航法システムの中では最も早いもので、米軍が最初、中波で1942年6月に大西洋に実験局を作った。1944~45年には西南太平洋の占領地に次々と増設。44年以降の夜間長距離爆撃や潜水艦による通商破壊は、これにより容易になった。日本の灯台を真っ先に爆撃して困らなかったのも、ロランがあったからといえよう。ロランは朝鮮戦争の爆撃も容易にした。米軍はGPSの普及等により、平成5年に北太平洋のロランCを海上保安庁に引き継いだ。

・山の中の最高送電鉄塔:本書の取材のために、日本の全ての電力会社に宛てて、手紙で「高さ110mを超える鉄塔の有無と所在」を訊ねた。北陸電力からは一切情報は非公開との返事を頂戴し、沖縄電力からは返事がなし。四国電力は「合計10基ほどございます」と教えてくれた。東北電力にょうに110mを超える鉄塔が3基あると親切に教えてくれたところは大いにありがたかった。九州電力には天草に195m鉄塔が2基あり、北海道電力、関西電力には110m超の鉄塔はないとのこと。東京電力は我々をわざわざ同社最高の148.5m鉄塔のある某所まで案内してくれた。

・依佐美送信所:元々は戦前の対欧無線局。戦時中は遠隔地の潜水艦に対してVLF(超長波)で指令を発していた。VLFなら潜水中の潜水艦でも受信できるためだ。昭和22年には空中線を撤去、機能を喪失するが、昭和27年に米海軍が、世界各地の潜水艦にVLF電波を送信する基地の一つとしてここに注目。設備が再建された。VLF通信は、常時潜行しているミサイル原潜に対する指令機能に威力を発揮するものだったため、昭和59年にはソ連に煽られた全世界的な反米反核基地運動のターゲットにもされた。

・東京タワー:特別展望台は、もともと一般観光客には公開していなかった。昭和43年に「霞ヶ関ビル」ができ、その展望回廊に大展望台の高さが抜かれてしまったため、急遽公開されることになったという謂れがある。

・市ヶ谷タワー:1991年の湾岸戦争の空爆で、最も破壊しにくかったイラクの施設は、電波塔のように地面から直接生えている自立型鉄塔だった。ビルならば巡航ミサイルで容易にヒットできるため、1999年のユーゴ空爆では、局舎と電力設備を破壊されたセルビアの放送局が沈黙させられた。

・雑学・世界のモニュメント:誰が確かめたのかわからないが、焼煉瓦をアスファルトで結着した「バベルの塔」の高さは90mだったらしい。ジッグラトに類似したもののようだが、藁入りの日干し煉瓦しかない古代、柱状の構造物で高度を稼ぐことは不可能だったため、技術的に唯一高度を稼げる台形積層構造としたのだ。「ピラミッド」の高さは146m。159mの尖塔一対を持つケルン大聖堂が1880年に竣工するまで、世界一高い構造物だった。

・失われた木造塔と天守閣:縄文遺跡の柱穴の発掘調査から、集落の見張り用の櫓が復元されたりしているが、たぶん最も早い日本の高塔は、そうした用途で作られたのだろう。文献上、最も早い高塔は585年に蘇我馬子が建てた「大野丘北塔」がある。しかし、この塔以下、室町時代にかけての高塔については全て地上高データを欠く。相国寺の109mの七重大塔も、その高さについては文献に明記しているものではない。

2010年11月21日日曜日

<絶版兵頭本>紹介@『日本の高塔』:その1

●基本データ
・書名:『日本の高塔』
・著者:兵頭二十八
・発行:四谷ラウンド
・初版発行:99年11月15日

●目次
◆煙突
◆灯台・電波灯台
◆架空送電鉄塔
◆長波/短波通信の空中線支柱
◆中波ラジオ放送アンテナ
◆テレビ/FM放送塔
◆マイクロ通信塔とマルチメディア・タワー
◆吊橋主塔
◆展望塔
◆遊具タワー
◆モニュメント
◆木造建築物
◆超高層ビル
◆エレベーター試験塔

――副題に「A Pictorial & Historical Survey of Vertical Structures in Japan」とある通り、日本のタワーに関する歴史を綴った写真集。こういった本は同人誌では珍しくないが、そのほとんどは写真を売りにしたもので解説は“ツマ”であることが多い。一方、同著は写真以上に「ほんの少しミリタリー色を交えた濃密な解説」がウリの本であって、この点、同人誌では決してマネのできない“プロの仕事”臭がプンプンする逸品。「灯台・電波灯台」で取り上げられてる「ロラン(Long-range Radio Navigation system)」に関する初心者向け解説は、多分、この本でしか読めないものだろう。

2010年10月14日木曜日

<絶版兵頭本>紹介@『戦記が語る日本陸軍』(掲載コラム):その3

◆「烈風があったなら…」~戦後もっとも支持された虚構
・奥宮・堀越共著『零戦』が戦後の日本人に与えたインパクトはあまりに大きい。「日本はあれ以外に何をしようが結局アメリカには勝てなかったのか?」という素朴で根本的な疑念に、技術的に権威ある論拠を揃えて応えた随一の書だったから。

・堀越は「MK9A」エンジンを早く制式選定していれば、「烈風」がマリアナ海戦までに実用化されF6Fにも勝てた――という自画自賛を展開した。この神話は、初版から40年経った今日でも戦記小説などで再生産されている。

・内燃機関の機械工作上の困難は、大はピストン、小は排気弁や噴射ポンプなどが「高温高圧を封じ込めると同時に摺動する」ことを要求される点にある。このため接合部では緊度(プラスの公差)はあってならず、遊隙(マイナスの公差)は限りなくゼロに近くしなければならない。

・日本のエンジン工場では、熟練ヤスリ工が細工物のように手仕上げしていくために、高精度を求めるほど生産性と精度が低下していった。単能精密工作機械を並べ、婦女子を使いながら互換性のあるエンジン部品を大量生産していたアメリカとは、同日の談ではなかった。

・「MK9A」のような2000馬力級のエンジンは、それまでの公差数ミクロンから更に1~2桁精度を向上させる必要があった。これは熟練ヤスリ工でも無理な話。試製「MK9A」は、試運転と開放検査と研磨を繰り返してようやく完成したモノ。一方、昭和16年に完成していた「誉」エンジンは、「疾風」「紫電改」の量産が始まると開放検査を省略して大量生産された。

・2000馬力級エンジンの生産にあたって開放検査工程を省略するのは、ほとんど暴挙。「疾風」が実施部隊で調子が出なかったのも当然。結局、「MK9A」は8機の「烈風」試作機体のため2基しか作れなかった。大量生産などできるはずもなかったのだ。

・部品の製造公差を上げられない日本が、アメリカと航空戦争を戦うためには「火星」エンジンのようなシリンダー圧そのものは「栄」エンジンと大差ない大径大馬力エンジンか、致命的な摺動部品が少なく蒸気タービンと同じように開放検査を省略できる可能性があったターボジェットエンジンに賭けてみるしかなかっただろう。

・東京帝大から三菱重工に進んだ昭和の超技術エリートの堀越に、小卒の職工が油まみれになってヤスリをかけていた工場の実装など、まるで視野になかったとして怪しむに足りない。

◆旧軍航空隊が活躍する戦後マンガ
・「海軍パイロット=カッコイイ」というステレオタイプは、戦前には既に軍国少年のあいだで定着していた。優秀なパイロットは得難いため、海軍航空隊が陸軍や連合艦隊以上に広報を重視していたためだ。

・昭和10年代生まれの少年たちが戦後成人して作家になると、世相におもねりつつも自分の中でイメージ豊富な海軍航空隊を活躍させずにはいられなかった。彼らには陸軍航空隊の知識は「加藤隼戦闘隊」くらいしかなく。「陸軍=暗愚。連合艦隊=閉鎖的」という大衆側のイメージも定着していたため、カッコいいキャラを自在に展開できるのは海軍航空隊モノに限られていたという事情もあった。

・昭和27年に日本占領が終わると、貸本業界で絵物語という形で復古。60年安保闘争は保守サイドからの強い反発を招き、出版業界では戦争モノを大々的に取り上げるようになった。大手には検閲恐怖症が残っていたためか、最初に手がけたのは中小規模の秋田書店や少年画報社だった。

・貝塚ひろしの「ゼロ戦レッド」を皮切りに類似作品が頻出。辻はやとの「0戦はやと」は海軍航空隊モノの黄金パターンを確立した。つまり、単純なキャラの主人公が米軍相手に大暴れして、最後に唐突に特攻戦死することで「好戦的じゃありません」とPTA向けに挨拶するようなパターン。

・この黄金パターンからいち早く脱却したのは松本零士。主人公はコンプリケイテドなキャラでことに敵愾心が希薄に描かれる一方、メカの描写は正確・精密で、航空機や狙撃銃そのものがキャラクターの地位に昇格したようなもの。フィクションとしては邪道かも知れないが、これが左翼の攻撃から安全な戦争マンガ技法の一つの範となった。

◆日本の戦争映画が娯楽にならない理由
・南方に孤立している暴れ者揃いの航空隊に若い隊長がやってくる。最初は部下の反発を買うが、次第に統率を確立していく……というプロットは、旧軍航空隊を書いたマンガで必ずといっていいほど使われるパターン。

・そのルーツは日本の戦争映画にあり、さらに遡るとパクリ元である戦前のハリウッド映画にいきついてしまう。戦前に成人していた日本の映画人が、戦後、ハリウッド映画を参考にしないと娯楽作品が作れなかったのは、いささか情けない。

・しかも、ハリウッド製の戦争娯楽映画のテーマは「暴力」なのに、それを真似た日本の映画のテーマはなぜか「死」にすりかわっている。その理由は、戦史を自分なりに研究しようとせず、戦争のコンテクストや旧軍人の評価について自分なりの見解がないのに、戦後教育で「太平洋戦争史観」だけは脳移植されている日本の映画人が、よってたかって内容にチェックを入れたためだろう。GHQ恩賜の「太平洋戦争史観」を奉唱する限り、戦争フィクションのテーマは「死」にしかなりえないのだ。

・昭和56年の「連合艦隊」で、実名非難のタブーがなくなり南雲、栗田も愚将として描かれた。これがヒットしたことで、この時期、戦争映画の製作が相次いだ。しかし、表現上の制約(実名忌避など)がなくなっているにも関わらず、「死のテーマ」の反芻は相変わらずだった。日本の戦争映画は、昭和フタケタ生まれの貧乏漫画家たちの想像力を未だに超えられないでいる。

◆ 「if戦記」と「近未来戦」小説ブーム<1>
・米ソの大量報復核戦略は、小説の想像力を遥かに超えてしまった。核戦争のリアリズムが誰にも掴めぬまま『渚にて』のような悲観的なSFも書かれた。戦術核を駆使した近未来戦小説の書き手は、欧米でも育たなかった。

・ところが69年に中ソ核戦争の危機が過ぎ、相互確証破壊態勢を確立すると、核兵器は使えない兵器だという認識が広まる。結果、78年には『第三次世界大戦 1985年8月』が公刊される。

・同書は、核兵器が使えない状況を設定し、欧州における空陸の戦闘を通常兵器だけを使って展開させた点がミソ。これならば、軍人にもよくわからない核戦争のディテールを活写してみせる作業を避けられる。

・このコロンブスの卵に、日本の大衆ジャーナリズムが飛びついた。ソ連軍が佐渡島に橋頭堡を築き、新潟から東京を衝く、という荒唐無稽な軍事シミュレーション小説『ソ連軍日本上陸! 第三次世界大戦・日本篇』はこうして書かれた。

・こんな小説でも一般読者の軍事知識が皆無に近かったため、刺激性は十分あって中ヒットとなった。その後、矢継ぎ早に同工異曲の作品が数人の著者の手で上梓された。これらの作品はハケットの作品にディテールでも筆力でも及ばす、2年ほどで飽きられた。

・しかし、この「近未来戦」小説ブームの終わりとともに始まる80年代は、やがて来る「if戦記」ジャンル確立の下地が用意された10年でもあった。このあいだに、マニアックな資料がメディアから提供され、兵器・戦史オタクが増え、スケールモデラーが現れた。

・これらの震源地は『ホビー・ジャパン』。同誌の版元はヘックスで兵棋を動かすボードシミュレーションを輸入し、普及を図った。これらのゲームはPCに移植され、『大戦略』『信長の野望』を生む。

・ほとんどの戦史オタクは、二次~三次資料に依存し、自ら一次資料にトルク向きは全くなかった。しかし彼らは、伊藤正徳が定着させた単純な「海軍賛歌」史観からいち早く抜け出した。最新の二次~三次資料を踏まえていない安易な「if戦記」にそっぽを向くという点で、彼ら戦史オタクの存在も、兵器オタク同様に、「if戦記」の書き手をふるいわけする作用を果たした。

◆ 「if戦記」と「近未来戦」小説ブーム<2>
・71年、高木彬光は『連合艦隊ついに勝つ ミッドウェーからレイテ海戦まで』を上梓した。ストーリーは“戦史オタク”の雑誌記者が、日本艦隊の旗艦にタイムスリップし、“お告げ”によって海戦の結果を逆転させてしまうが、個々の海戦に勝っても大局は覆らず、主人公は歴史を変えることを諦める――というもの。

・「if戦記」の嚆矢だが、「タイムスリップした主人公に歴史を変えさせてはいけない」というオーソドックスなSFの約束事にとらわれていた。これは『戦国自衛隊』『ファイナル・カウントダウン』も同様。

・この“お約束”を打ち破って、同じ作家が架空戦記だけでメシが喰えるようにしたのが「パラレルワールド」という舶来概念の導入。試行錯誤の末にスタイルが確立され、ようやく「if戦記」は全盛を迎える。

・ブームの原因は単純。日本の大衆は、知れば知るほど先の大戦の経過に不満を募らせ、日本の映画やテレビがその憤懣を解消してくれないことにフラストレーションを鬱積させていたからだ。この「if戦記」ブームで強気になった版元は、現実世界の紛争に自衛隊が巻き込まれる「近未来戦」小説をも刊行し始めた。











2010年10月13日水曜日

<絶版兵頭本>紹介@『戦記が語る日本陸軍』(掲載コラム):その2

◆誤訳戦記とホンダの空冷エンジン
・本田宗一郎は、バイクからクルマへビジネスを拡大する際、空冷エンジンに固執した。反対する部下を言いくるめるための理屈が「ドイツの戦車部隊は空冷だったから、ロンメルは大活躍できた」というもの。

・最初から空冷でいくと決めていたため持論の補強に用いたに過ぎないだろうが、繰り返し言っているうちに真実と思い込んだ節がある。

・もちろんドイツ軍の戦車は、空冷ではなく水冷四サイクルのガソリンエンジンだった。空冷が使われていたのはイタリア軍の戦車とアメリカ軍の軽戦車のみで、お世辞にも活躍したとはいい難い。では、本田の信じた「ドイツ戦車は空冷エンジン」というハナシはどこから来たのか?

・ロンメルが活躍した北アフリカの戦いはイギリス軍にとって最後の光輝といえるものだった。だからこそイギリス人史家は、この戦いをドラマチックに取り上げた。

・さて、イギリスは工業大国だったが自動車産業はアメリカの後塵を拝していた。対独開戦前までのイギリスの戦車は、水冷エンジンの冷却がうまくいかず苦労していた。一方、ドイツの戦車は水冷エンジンの放熱問題で全く悩んでいないように見えた。

・これに感銘を受けたイギリス人は、「ドイツの戦車は<クーリングシステム>が優れていた」と筆を揃えて賞賛した。<ラジエター>といわず<クーリングシステム>といったのは、イギリスでは専門家が一般向けの本を書くときには、できるだけ「学界用語」を避けるという慣習があるため(アメリカとは全く逆の現象)。

・昭和30年代には、こうしたイギリス人の北アフリカ戦史が和訳される。その際、<クーリングシステム>とあるところが<クーラー>と訳されることが多かった。このため当時の読者には「ドイツの戦車にはエアコンがついていて、乗員は涼しく戦闘できた」と勘違いしている人が少なくない。

・若き本田宗一郎は、この<クーラー>を、空冷エンジンの送風機の誤訳だと深読みしたのではなかったか? <ラジエター>と正確に訳されていたら、ホンダのクルマは最初から水冷路線となって、日本の自動車産業の構図も少しは変化していたかもしれない。

◆輸入できなかった“正統派”戦略論
・マハンはクラウゼビッツ理論から刺激を受け、『戦争論』を海上にあてはめるところから出発して、遂に現代海洋戦略論の祖という名声を獲得した。日本海軍は秋山真之を通じてマハン理論を受け入れたが、マハン理論の背景にはクラウゼヴィッツだけでなく、大英帝国史やローマ帝国史があり、それらをひっくるめた各国別の地政学が完成しつつあることまでは、研究が及ばなかった。

・「公海の内水化」「分割して統治せよ」「二方面作戦を避けよ」といった知恵は、全て古代ローマ人が書き残した教え。英国もソ連もこの最も古い準則に従って行動しようとしたに過ぎない。これを踏まえていなかったからこそ、日本の軍部は列強の次の言ってを最後まで読み間違った。

・欧米人は第一次大戦の結果から軍事理論体系の反省(『戦争論』の再評価)を試み、その混乱の中からリデルハートが「間接的アプローチ論」を生み出す。これは『孫子』のあまり精緻ではないテキストからダイレクトに影響を受けたものだった。

・日本の陸海軍は、第一次大戦後も『戦争論』の再評価をせず、その下流にあたる戦術、戦技についての悩みを深めたようだ。そしてどういうわけか、明治生まれの海軍人において、禅の世界への傾倒が非常に目立った。

・山路一善などは禅の公案をタイトルにした『隻手の声』という本を上梓したほど。これはアラブの古諺「人は片手で拍手することはできない」をそのまま翻訳したもの。他の公案も深い意味はない。およそ軍人がのめりこむような問題ではなかった。

◆戦後の軍歌はなぜつまらないか
・膠着語の自然な口語では、文末が用言で終わることが多い。この用言止めを使って詩を作り曲をつけようとすると、メロディの一フレーズが終わる相当前から、フレーズにあてられている詩の行末(一文の意味)が聴く側に推定されてしまう。詩文の与える感動と旋律の与える情動が一致せず、感作力が薄まってしまうのだ。

・英語(欧印語)ではこの問題は起こらない。口語でも文語でもたいてい文末に体言や名詞句がくる。フレーズと詩の区切りが“同時弾着”になるので、歌の持つ感作力がより大きくなる。加えて英語では、どんなに不出来な詩でも、緩急強弱さまざまな音符・調子に乗せて歌いやすいという点で、他の欧印語を圧倒する自在性がある。

・日本語の歌でこれに迫ろうとするためには、二つのアプローチがあろう。一つはテンポを非常にゆっくりにすること。もう一つは意図的に体言止めを多用した文語で詩を作ること。しかし、明治以降、世の中万事スピーディになると、地唄や小唄のテンポで唱歌や軍歌をつくつことはとうてい不可能になった。そこで唱歌や軍歌には体言止めの文語が多用された。

・この手法は、戦後、演歌や初期の左翼運動歌に短期間引き継がれたが、70年代安保終了後急速に消えていった。

◆ビジネス書のタイトルが示す“日本型組織論”の盲点<1>
・戦時中、兵器増産に追われた軍工廠は、米国の科学的管理手法を必死で研究した。戦後になると米国式経営管理ソフトの直輸入が図られた。

・米国では企業経営者が戦時に軍の指揮官に横滑りしたり、平時にはその逆の転身も普通に見られ、本来軍用であるハード、ソフトも経営管理に応用されている。

・60年代以降は、米国経営学の直輸入に対する疑念や日本式経営の再評価の機運が反映され始める。と同時に、日本の企業風土にマッチした経営学のヒントを、日本古来の兵法や旧軍参謀システムの中に見出そうとするビジネス書も出てくる。

・このトレンドを大爆発させたのが山崎豊子の長編小説『不毛地帯』。この連載が始まると、早くも「参謀」というキーワードを取り込んだタイトルのビジネス書が出始める。ビジネス書ではないが、中公新書の『ドイツ参謀本部』(渡部昇一著)もタイムリーに上梓された。

・小説の第一部が完結した昭和51年以降は、毎年一冊以上は必ず「参謀」絡みのタイトルを持つビジネス書が出版されるようになる。また、「参謀」ブームに便乗するように、日本古来の兵法をタイトルに謳うビジネス書も点数を増していった。

・70年代末から80年代末にかけては、日本経済の躍進と米国経済の低迷のコントラストがハッキリとしたため、日本的経営を再評価するタイトルが頻出する。バブル絶頂期を迎え、かつての米国流組織経営に学ぼうという姿勢は、日本型組織の自画自賛にすっかり置き換わる。これは“不毛地帯の勝利”というべき現象だろう。

・『不毛地帯』は主人公が社内に強力な参謀組織を構築。ワンマン経営を終わらせ、旧陸軍流組織のVサインをもって完結する。しかし、山崎豊子は旧軍にも現代の大企業にも、日本人のつくっている組織には独特な共通点があり、この共通点が米国流組織との競争では対抗不能の弱点にもなり得ることには注意を向けなかった。

◆ビジネス書のタイトルが示す“日本型組織論”の盲点<2>
・日本軍は米軍に敗れた。これは日本軍の組織のソフトウェアが、米軍のそれに敗れたということ。しかし、戦後のおびただしいビジネス書は、ついぞその両者のソフトウェアの本質が何かを抉り出すことはなかった。

・旧軍を貫いていたのは、「非家族組織における“養老”の風習」だった。これは戦後の日本企業にも丸々生き残っている。しかし、それを指摘することはビジネス書のユーザーである経営者を怒らせただけだったし、日本文化の否定というラディカルな結論にもなって、論者の人格的中庸が疑われる危険があっただろう。

・一方、米軍の組織の本質は「マニュアル」にある。アメリカのリーダーたちは、良いマニュアルを策定することで、大勢の弱卒を有能な強兵と同じように行動させる。

・良いマニュアルを策定するためには、部下以上の洞察力と言語能力が必要。「できる者」が自分の獲得した秘術を科学的に分析したうえで、「できない者」の立場にたって説明する必要がある。

・こうした良いマニュアルの威力は絶大。だから、米国の組織はマニュアルを策定できる才能を見出し、リーダーとして処遇して力量を発揮させる。

・ところが日本では、部下や後輩が上司や先輩をサポートするのは当然という考え方で、社会組織の全てが動いている。儒教圏の中国、韓国でも、血族でもない限りここまではしない。それが当然視される「非家族組織における“養老”の風習」は、儒教圏でも日本だけの組織文化。

・部下の上司に対する“養老”が与件となっていると、上司が部下をよりよく働かせるために、良いマニュアルを策定する必要がない。だから言語能力も評価されず伸びることはない。こういうわけで日本では、首相や司令官や参謀は、部下にとって言語的に“idiot”でも務まるのだ。

・ことほどさように「養老組織」と「マニュアル組織」は水と油。「養老組織」である日本企業が「マニュアル組織」を摂取することなど、はじめからできることはなかった。零戦、大和といった既存技術の延長線上での極端化でしか武器の開発を進められなかったのは、高級参謀の頭に染み付いているが故にことさら説明をしないですむものだから。

・多くの日本人は、自己のマニュアル策定能力の不足を自覚するがゆえに、ナンバーワンになることを恐れている。そこで、トップの次に位置し、トップから相談された課題を一所懸命に答解してみせるだけで全組織から有能と認めてもらえるポジション――という勝手な「参謀」像を抱いている。

・日本はそもそも米国の科学技術力に敗北したのか? それ以前に各級リーダーの言語能力において、日本人は米国人に完敗していたのではないか? そして、いまもなお米国人に負け続けているのではないか。中卒後、ただちに大学受験ができるような“学制破壊”でもしないかぎり、この言語能力の差は永遠に埋まらないように思われる。

2010年10月12日火曜日

<絶版兵頭本>紹介@『戦記が語る日本陸軍』(掲載コラム):その1

●基本データ
・書名:『戦記が語る日本陸軍』
・著者:宗像和広
・発行:銀河出版
・初版発行:96年5月15日

●目次
◆第一章:総合戦史を読む
◆第二章:日本陸軍の大要を読む
◆第三章:個別戦記を読む
◆第四章:兵科・戦術を読む
◆第五章:米英側から読む
◆第六章:軍閥・軍人を読む
◆第七章:支那事変を読む
◆第八章:陸軍航空を読む
◆第九章:陸軍兵器を読む
◆第十章:海軍その他を読む

●兵頭二十八コラムの見出し
◆誤訳戦記とホンダの空冷エンジン(29p)
◆「烈風があったなら…」~戦後もっとも支持された虚構(41~43p)
◆旧軍航空隊が活躍する戦後マンガ(72~76p)
◆日本の戦争映画が娯楽にならない理由(90~94p)
◆輸入できなかった“正統派”戦略論(122p)
◆戦後の軍歌はなぜつまらないか(140p)
◆「if戦記」と「近未来戦」小説ブーム<1>(153~155p)
◆「if戦記」と「近未来戦」小説ブーム<2>(172~173p)
◆ビジネス書のタイトルが示す“日本型組織論”の盲点<1>(192~194p)
◆ビジネス書のタイトルが示す“日本型組織論”の盲点<2>(207~209p)

――陸軍兵器本でコンビを組んでいた宗像和広氏の著書。兵頭師は章末のコラムを担当している。なお同書の内容は、「本書は日本陸軍に関する軍制・戦史・兵器解説の中から主なものを選び出し、そのダイジェストないしは成立過程を紹介するもの」(3頁)とあるように、岩波新書から洋書までを幅広く紹介したもの。巻末の戦記・戦史一覧(1945~1995年までに発刊された1100点超の書籍タイトルを網羅)も素晴らしい。

2010年10月5日火曜日

<絶版兵頭本>紹介@『並べてみりゃ分る 第二次大戦の空軍戦力』:その2

◆第二次大戦前の軍用機
・今回の企画は第二次大戦機の1/72模型を並べながら論ずるというもの。

◆大戦間のフランス機
・戦間期に双発爆撃機が多いのは「流行」。ドウエ理論に触発されて自ら防御できる装甲と武装を持つ爆撃機を作るようになる。ドウエは旋回機銃の威力を過大評価していた。
・フランスの防空思想は「偵察機中心主義」。フランス防衛の主力は陸軍、その陸軍のために隣国の動員&集結状況を探って知らせるのが第一任務とされていた。

◆イリューシン4と一式陸攻
・日本海軍の航空隊は、案外ソ連軍機に影響を受けていて、仮想的のアメリカ軍機はほとんど眼中になかったのでは? という仮説。むしろ日本陸軍の方がアメリカ空軍を意識していた。
・イリューシン4は長距離を飛行して雷撃ができた。まさに日本海軍が求めていたコンセプトそのもの。試作機であるDB-3の初飛行は37年、改善型のイリューシン4は39年完成。日本海軍が一式陸攻の設計指示を出したのが39年。九六式陸攻の魚雷型と一式陸攻の葉巻型とは飛躍がありすぎる(一方、イリューシン4とは側面図がそっくり)というのも状況証拠の一つ。

◆Me109
・「メッサーシュミット109は、中学校の世界史の教科書に載せていい唯一の戦闘機。その絶頂期は、1938年のチェコ併合です。ヒトラーには数百機のMe109があった。チェンバレンにはまだ6機のスピットファイアしかなかった。フランスにはマジノ線しかなかった。だから英仏はミュンヘンで宥和するしかなかった。こんな『戦果』をあげた戦闘機は、歴史上、他にありません」(22頁)
・Me109は第一次大戦の当然の結論。レッドバロンでさえ最後は落とされた。格闘戦で少しでも損耗すれば連合軍の数には勝てない。少数機で押し切るためには一撃離脱に徹するしかない。こうした戦訓からMe109が生まれた。

◆戦間期の中国大陸
・日本機の武装が弱装なのは「バネ」を自製できなかったから。自動火器の「バネ」は究極の特殊鋼なので、戦前の日本には小さくて強力なものが造れなかった。
・日本のパイロットが格闘戦にこだわったのは、平時の操縦性の良さを欲したという隠れた本音があるのでは? 重くて速い飛行機が強いのはわかりきっていたけど、平時の訓練で着陸するときに壊してしまう可能性が高い。これを嫌っていたのではないか。

◆日本陸軍の重爆とアメリカ陸軍の重爆
・貧乏で多くの機体を調達できない日本が出した結論は、「ドウエ理論の半分である1t爆弾を積む飛行機にして、その代わり出撃回数を増やそう」というもの。これが世界一ダメな爆撃機を生むことになった。
・航空撃滅戦は第一撃が勝負。第一波が戻っている間に、相手は体制を立て直しているから第二波を掛けるのは単にやられに行くだけ。
・だからこそ、ドイツみたいに搭載量を重視して第一撃に全てを賭けるべきだった。航続力の要求はないのだから、日本にも十分造れたはずだ。

◆ドイツの双発爆撃機
・39年の東方電撃戦は「動員奇襲」。旧来の爆撃機では敵国の鉄道網を確実に破壊することは不可能だったが、スツーカが初めて可能にした。鉄道網を寸断して敵の動員を遅らせて勝ったのがポーランド戦。
・宣伝でいうほど空地は協力していないのではないか? FMボイスで空地交信できたのはアメリカだけで、ドイツはずっとAMだった。

◆零式艦上戦闘機
・昭和17年、菊池寛が陸軍航空隊の幹部にインタビューしたところによると、「歩兵は100人いれば長が能無しでも100人分の働きはするが、航空隊は長がダメだと戦果ゼロ」とのこと。
・南方での緒戦でイギリスのパイロットだけはオーストラリアに逃げずに最後まで空襲を仕掛けてきた。日本の爆撃隊なら高射砲弾が炸裂する空域からは一刻も早く逃げようとするのに、かれらは何時間も粘っていた。

◆隼
・緒戦で陸軍は空軍の援護距離を超えて侵攻作戦をしない冷静さがあった。しかし、海軍がソロモンで航空消耗戦を勝手にやったとき、「南東方面作戦はやめるべき」と主張していた大本営参謀の久門中佐が事故死してから歯止めがきかなくなったようだ。
・航空機の進出限界を念頭におけば、インパール作戦も距離的には無謀とはいえなかった。ただし、その頃にはラバウルとニューギニアで陸軍航空戦力をドブに捨てていたために実施不可能になっていた。

◆ワイルドキャット
・日本海軍の航空部隊の命令系統は、下士官をパイロットにしたことで破壊されていた。兵学校出の未熟な士官が編隊長になっても、いざ上空に上がったら部下の下士官パイロットは命令をきかない。実質リーダーが不在なので、文字通り烏合の衆。統一指揮された米軍に勝てたら、その方がおかしい。
・当時の海軍航空隊の下士官が元気なのは、普段でも陸軍よりメシの良い海軍で、航空増加食を食べた上、覚醒剤を打たれて飛んでいたから。

◆紫電と紫電改日米の戦略任務機
・貧乏国の戦闘機は、機体も訓練も一撃離脱に徹するしかなかった。絶対に補充がきかないんだから。少飛くらいじゃ本気度が足りない。小学生をモロに乗せる「小飛」くらいをつくってようやくアメリカと戦えた。疎開させたって空襲で子どもは殺されるんだから。
・英国教導団のセンピル大佐が大正11年に帰英した後の講演で、「日本のパイロットはエンジン音が危険を告げているときに何の行動も取ろうとしない。危機を五感で感じて臨機に対処できない」と報告している。こういう日本人の鈍感さは終戦まで続いている。ミッドウェイで負けたのも海軍人がみんな百姓だったからとしか言いようがない。

◆日米の戦略任務機
・九二式重爆は「フィリピン・ボマー」。台湾からフィリピンの米軍航空基地を奇襲するために作られた。そうでなかったら陸軍が4発重爆を作る必要はなかった。ソ連の航空基地は黒龍江の向こう岸にあるんだから。

――以上、兵頭二十八師の発言を中心に紹介。他の三氏の発言もとても面白いのですが(スピットファイアへの酷評、陸上機と艦載機の違い、液冷機と機首の太さとの相関関係etc)、あくまでも<絶版兵頭本>という観点からの紹介のため、敢えて取り上げていません。

2010年10月4日月曜日

<絶版兵頭本>紹介@『並べてみりゃ分る 第二次大戦の空軍戦力』:その1

●基本データ
・書名:『並べてみりゃ分る 第二次大戦の空軍戦力』
・著者:宗像和広/三貴雅智/小松直之/兵頭二十八
・企画・編集:兵頭二十八
・発行:銀河出版
・初版発行:97年7月25日

●中見出し
◆第二次大戦前の軍用機
◆大戦間のフランス機
◆大戦前夜のソ連機
◆イリューシン4と一式陸攻
◆対ソ援助機
◆スペイン内戦の両陣営機
◆ソ芬戦争
◆大戦前のイギリス機
◆レーサー機
◆スピットファイア
◆イタリアの液冷戦闘機とMe109
◆Me109
◆戦間期の中国大陸
◆B-10
◆日本陸軍の重爆とアメリカ陸軍の重爆
◆イギリスの4発重爆
◆ドイツの夜間戦闘機
◆「1000馬力エンジン」搭載機
◆練習機
◆枢軸国の飛行艇
◆日本海軍の陸上攻撃機
◆各国の輸送機
◆ツヴィリンク
◆ドイツの双発爆撃機
◆零式三座水上偵察機とキングフィッシャー
◆グラスホッパー、シュトルヒ、零式観測機
◆ドイツの陸上偵察機
◆各国のオートジャイロ
◆グラマン・スカイロケットとウェストランド・ワールウィンド
◆Me110と屠龍
◆モスキート、屠龍、P-38、一〇〇式司偵、Yak-4
◆対戦車攻撃機
◆艦上攻撃機
◆ドントレスと九九艦爆
◆彗星
◆零式艦上戦闘機
◆日本の水上戦闘機
◆隼
◆P-35とRe2000
◆鍾馗、雷電、P-39
◆サンダーボルト
◆ムスタング
◆P-40、F-8F、B-26
◆飛燕と五式戦
◆Fw190、五式戦、疾風
◆ワイルドキャット
◆コルセア
◆コメートと秋水
◆Me262
◆紫電と紫電改
◆日米の戦略任務機
◆対B-29迎撃機
◆日独の特殊攻撃機
◆ミステールと桜花
◆プッシャー式高速機
◆大戦末期ドイツの試作機
◆烈風
◆日本の末期の試作機
≪附録≫旧日本陸海軍の航空機搭載爆弾メモ

――久しぶりの晴天で本の虫干しをしているうちに、「野球本を紹介するのもいいけど、<絶版兵頭本>を読書メモとして紹介するのもいいんじゃね?」と思い立ち見切り発車でスタート。まずは入手しにくくWebにも情報の上がっていない本から紹介することにします。というわけで一回目は「ロープウェイ本」と並んでamazonで高値安定している「空軍機本」です。なお、当blogでの読書メモは、あくまでも「手前が面白いと思った内容を乱暴に要約して箇条書きで紹介する」というものなので、その旨ご承知置きください。