2012年5月14日月曜日

『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』と兵頭二十八師の論考:その4

以下、『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』で語られていた薀蓄について、『ヤーボー丼』の「附録・研究ノート:『五輪書』にあらわれた日本語的軍事理性を見直す」からのパク……いや、剽……、いや盗……、いや引き写……じゃなくて、ごく客観的かつ公平に見て、「どうも良く似てるナァ」と思われる部分の抜粋です。映画で出てきた順番にあわせて紹介します。

◆『ヤーボー丼』、「附録・研究ノート:『五輪書』にあらわれた日本語的軍事理性を見直す」より

およそどのような言語であれ、視覚イメージと照合し得ない抽象語(表現)は、時と共に多義化することがある。その多義化がいきすぎれば、望ましいコミュニケーションが行えなくなる。
(中略)
しかし、時と所によって、抽象語のそうした多義化がどこまでも許容されるかに見える場合がある。恐らくそれは、ある言語地域に対する他言語の接触が永い間局限され、対応関係にある外国語単語が当地の言語使用者の意識の上で最早照応されなくなった時か、さもなくば、その地域の言語生活の上では、レトリックよりも、単語が連想させる視覚的でない漠然としたイメージを多用する方が効用が大きい場合であろう。

日本語文化圏には古来、後者の傾向が存したといわれるが、室町時代に普及の始まった禅家者流の言語態度が、それを一層強化した可能性がある。加えて江戸時代の鎖国の完成は、前者の条件をも実現し、ひとつの単語に無限定の連想を胚胎せしめる言語習慣を、明治の開国にも関わらず、軍部の中にも繁茂させてしまったのではないか。
(180頁)

(11)「仏法、儒道の古い語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちひず…」

彼以外の江戸時代の兵法者が多くの新外来語に助けられているのに比し、『五輪書』は、自分の体験・見聞とその自己分析以外からは何の権威も借りていない。
(中略)
その会得した所を彼自身の平明な日本語にしたためて、文字を媒介にした後世の人の批判も受けて立とうとする科学的合理精神も、「不立文字」などを呼号しながらその実文字を弄び、遂にはこの日本国に、レトリックなき大衆指導者を簇生せしめるに至る歴史的起因となった禅家者流の言語態度とは、氷炭相容れない。

巷間、宮本武蔵をもって禅の一種の達人と見做したがる風潮があるが、事実は、禅などの影響が最小限に止められたが故に、『五輪書』の合理精神は永く誰にも越えられないのである。
(181~182頁)

――とりあえず、これにて「確認用テンプレート」は終了です。もう一回、映画を見直して、軍師の他の著作を読み直してみたら、ほかにも幾つかの“元ネタ”は見つかるだろうと思います。ただ、あいにくレンタルしたDVDは返却してしまいましたし、再度借りるつもりもありませんし、何よりも作業が面倒くさいので、不徹底ではありますがここで打ち止めです。

ともあれ、「前進ベクトル」とか「騎士は死なないという特権」とか、軍師以外に使わないような言い回しが、そのまんま使われてますからね。「巷間、宮本武蔵をもって禅の一種の達人と見做したがる風潮があるが、事実は、禅などの影響が最小限に止められたが故に、『五輪書』の合理精神は永く誰にも越えられないのである」って文章だって、脚本から抜書きしたんじゃね? って感じですし。

といっても、以上のことはあくまでも手前の印象であって、熱烈な兵頭ファンじゃない人や、熱烈な押井守ファンな人が見れば、「都築のヤローが偉そうに確認用テンプレートとか書いているけど、全然違うじゃねぇか!」って感想を抱くかも知れないので、もうパクリとか剽窃とか盗用とか引き写しとかなんていわないよ絶対(槇原敬之©)。


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