「『百パーセント、選手を統轄しておかないと気が済まぬ人』というか、『すべて自分の考えに選手をあてはめ、従わせようとする人』とでもいえば、いいだろうか。~~中略~~バケツいっぱいの水を運んでいくとき、ひとしずくのこぼれも許さない……そんな感じだった」(145頁)
東尾による広岡評だ。これに続いて、小中学生でもわかる基本を70項目列挙した「必勝法」「必敗法」を繰り返し読ませる。悪名高い玄米食、黒砂糖、岩塩、干しぶどう、加えてアルコール抜きの食事。遠征先でのポルノビデオ禁止……。いわゆる『管理野球』の実態が切々と綴られている。
最初の激突は、82年6月2日。後楽園での対日本ハム戦で東尾がエラー、そのまま敗北したことに端を発する。
「『あのプレーが、チームのムードをガタガタにした』という広岡監督の酷評。それだけならまだしも、“ヤオチョー的”という、プロ野球選手に対する最も屈辱的な発言さえ、活字にしている新聞もあった。それを見た瞬間、カッと頭に血がのぼった。この発言だけは許せないと思った」(152頁)。
その後、東尾に登板機会は与えられなかった。チームはたびたび連敗を続け、6月12日、ついに首位陥落の憂き目にあう。この試合後、監督、コーチ抜きのミーティングが行なわれ、森昌彦(現祇晶。巨人)コーチを吊るし上げることで選手が団結。東尾自身は6月17日に登板、勝利した。その後、チームは前期優勝→パリーグ優勝――東尾にとって初めての優勝――を達成。
「“やっぱり、これだけ徹底しないと優勝はできないものなんだな”と、広岡監督という人の戦い方を認めなければしょうがないか、とは思った。これは好きとか、嫌いというような問題ではなかった」(166頁)。
と、認めるにいたる。ここでこれ以上広岡の“ツンの成分”が炸裂しなけば、一人の野球人として互いに実力を認め合う大人の関係を構築できていたのだろう。しかし、広岡の“ツン”はこんなものではなかった。
以下、東尾の“受難”の歴史を辿ってみよう。
・いきつけの寿司屋で「オヤジ、明日投げるけど見に来るかい?」って誘ったら、なぜか広岡が知ることになり、登板日漏洩ということになっていた。
・前半戦で9勝したのにオールスターで監督推薦されなかった。
・その理由に「東尾が調子が悪いようだし」「週刊誌の問題(丁度、梓みちよとの密会が報道されていた)もあるし」ということにされた。
・肩痛が深刻なので「一度だけローテーションを飛ばしてもらいたい」と頼んだら、登板拒否とされ、広岡が良く知る諏訪の治療所にいかされた。
いまであれば、どこかの時点でトレードに出されていることだろう。これら一連の“受難”も、広岡にいわせれば、天狗になっていたベテランのケツを蹴り上げ、怒りを誘発させ、そのエネルギーを試合で発散させることにより、個々の選手の持つ能力を最大限に引き出すため――ということなのだが……。ときどき“デレ”なところを見せていれば良かったのだろうけど、東尾に対しては直接“デレ”ることはなかったようだ。
東尾を前に“デレ”たのはただ一度、83年の日本シリーズでのことだ。
5試合を終え、2勝3敗で巨人に王手をかけられた試合後のミーティングの回想。
「広岡監督は、ミーティング・ルームに黒板を持ち込んできて第一戦からの両チームの投手をずっと書き並べ、ゲームの流れを書きこんでの説明のあと、いった」
「『七戦までいけば、絶対にウチは勝つことになっている。間違いない、ウチは勝つんだよ』 そして、つけ加えた。『こんなにみんなが集まったいいチャンスだ。カラオケ大会でもやるか』」
「選手に気をつかったというか、なんとか笑わせようとした姿に“あ、この人も追い込まれているんだな”ということがよくわかった。~~中略~~広岡監督という人間が、初めて選手にみせた笑顔だった」(195頁)
このぎこちないギャグ(?)。まるで堀内恒夫(前巨人監督。巨人)の「ペヤング」(わからない人は、「堀内 ペヤング」でググってください)のようではないか。こうして精一杯“デレ”た結果、西武は巨人を倒し、日本一となった。
結局、東尾は現役のあいだは広岡を許すことができなかったようだ。しかし、引退後は、「オレもオッサン(田淵)もこうしていろいろ言っているけどね、広岡さんを監督にしたのは大正解。いい勉強をさせてもらったよ」(西武ライオンズ30年史。Wikipediaより引用)と態度を軟化させている。自ら監督を経験し、初めてトップの苦悩を知ったことが、広岡に対する見方を変えさせることになったのではないだろうか?
と、いろいろと書いていったらどうにも収拾つかなくなりそうなので、『私の真実』については、とりあえずここで打ち止め。福本豊(阪急)との対決とか工藤公康との邂逅とか、面白いエピソードがまだまだたくさんあるんだけどね。
あ、最後に一つだけ。東尾は75年のオフに巨人とトレード寸前になってるんだけど、そのときの交換要員は、「野球ファンなら誰でも知っているエースと俊足で有名な外野手。そのどちらかとの一対一」とのこと。恐らくは高橋一三(巨人→日本ハム)と柴田勲(巨人)でしょう。結局、東尾の後援会サイドが強硬に反対して流れたんだけど。
もし巨人が、柴田とのトレードで東尾を獲り、高橋で張本を釣っていたら、上手い具合にV9ナインとの世代交代と投手力強化ができて、もう少し早く藤田巨人時代のような常勝チームになっていたのかも。
といっても、監督がアノ人では全然変わらなかったかも知れないけど……。
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