2010年2月10日水曜日

私の真実、東尾修:その2

「たしか西京極球場での対阪急戦だった。一死三塁。おあつらえむきの場面がきた。ファウルで2ストライクと追いこんでおいて、次に1球、まず内角へシュート。この“ボール球にするシュート”がマキ餌だ。“さあ、シュートだよ”と1球、打者に見せておく。そこで、内角からのスライダーだ」
「打者は、“あ、またボールになるシュートだ”と思っている。……すると、球はそこから真ん中へサッとスライドして「ストゥライクッ」。やったね――てなものである」(104頁)

東尾修『私の真実』からの抜粋だ。江川卓(阪神→巨人)が「この球は右投手にとって相当、高度なテクニックを必要としますからねえ」と評し、東尾のピッチングの幅を広げる契機となった、「一死三塁で犠牲フライを打たせない投法」を初めて決めた日の回想である。

こんな講談調ライクな語り口で、ときに高度な技術論を、ときに過去の秘事を綴っている――これこそが、同書の一番の魅力だ。

もう一つ、落合博満(中日監督。ロッテ→中日→巨人→日本ハム)との対戦を振り返るシーンを見てみよう。

「フォームをおこす。バックスイングから右腕がしなって出ていく。落合がかまえる。私の球を待つ。“打ち”に入る。そこで私の右腕は粘りに粘る。ほかの打者に対して投げるよりもひと呼吸もふた呼吸も私は右手に球を残す。つまり“球離れ”を遅くして、落合君の体の崩れを待つのだ。向こうが私の“球離れ”を待ちきれずにバットを出してくるか、私が粘りきれず、向こうの構えの中に引きずり込まれていくかの“がまん比べ”といってもよかった。お互いが、そういう中でコースや球種を読み合った」(180頁)

この緊迫感。しびれるではないか。

・てか、リリースポイントが定まらないのに、ちゃんとコントロールできるのか?
・精緻なコントロールに比べて異様に多い死球は、これが原因だったんじゃね?

と思わなくもないんだけど、東尾クラスの技術をもってすればどうにかなる……のかも知れない。

死球については、同書でも章を割いていて、

「この際だから少し詳しく説明しておこう。ひと口に『デッドボール』というが、若く元気いっぱいの頃の死球と、速球が投げられなくなり“ゆるい球”で勝負するようになった頃の『死球』とでは、まったく意味が違ってきているのだ」
「相手打者は、こちらのそういう“衰え”を知っているから、“スライダー狙い”で思い切って踏み込んでくる。しかし、私の側からいえば“東尾はシュートで勝負してこない”と甘くみられたくない」
「打者が思い切って踏み込んできたときとその“見せ球”のシュートが合致するときが、後年の私のピッチングにおけるデッドボールなのだ」(202~203頁)

としている。まぁ、自分の言い分という奴だろう。

実際には最初からぶつける意図でぶつけたものもあっただろうし、自分より目下のバッターであればぶつけても怖くない(ぶつけられた側も、東尾のことを周辺の人間関係も含めて“良く知っている”ため下手に殴れない)ということもあっただろう。結果、球界のしきたりもヤクザも怖くないディック・デービスにボコボコにされ、そのシーンが「宮下をKOするクロマティ」とともに珍プレー好プレーで繰り返し放映されることになったんだけど。

こんな具合に激動の野球人生と技術論が綴られた同書のクライマックスこそが、広岡達朗との確執なのだ。

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