2012年5月11日金曜日

『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』と兵頭二十八師の論考:その1

以下、『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』で語られていた薀蓄について、『あたらしい武士道』からのパク……いや、剽……、いや盗……、いや引き写……じゃなくて、ごく客観的かつ公平に見て、「どうも良く似てるナァ」と思われる部分の抜粋です。映画で出てきた順番にあわせて紹介します。

◆「第1章17節:中世騎士に「戦死」はあり得ず」より

しからば、ほとんど一財産を傾けて、頭のてっぺんから爪先まで金属で覆ってしまって、矢の一本も立つことがなくしたあのアーマーと、それを載せてなお進退自在な良馬(この輸入および複数頭の意地だってもちろん身上潰しです)を揃えて、西洋の騎士たちは何を達成しようとしたのか?

ここがおそらく重要なところで、それはまず「騎士は戦死しない」という特権の確保に他ならなかったと思われます。
既に十字軍の中から騎士の捕虜が多数、出ています。彼らは身代金を払って生還しました。
(中略)
他方で、アーマーを着用せず、馬に乗らぬ十字軍の下士卒は、身代金を払えないので、どんどん殺されたり、命をとりとめても奴隷として売られてしまった。

アーマーに加えて、固有の紋章もまた、「自分は身代金を支払える領主である」ことの戦場でのサインになっていました。

それから、西洋の騎士が、弓やクロスボウを、配下の歩兵隊にはさんざん使用させても、みずからは決して用いなかったのはなぜだったのでしょうか?

それらの飛び道具は、手加減というものが利かず、当たれば騎士も無差別に殺されてしまう兵器だったからです。騎士同士は殺しても殺されてもいけなかったのです。

そこで、棍棒(メイス)や殻竿(フレイル)のような片手武器が騎士たちにはいちばん好まれました。そういうもので敵の騎士の兜を打撃すれば、相手は脳震盪を興して倒れますけれども、死にはしません。ボクサーが厚いグラブをはめて人の顔を殴るようなもの。生きたままで降参させられる。他方もし敵軍の雑兵や、領地の反乱農奴を相手にする場合には、その棍棒で、十分な殺傷力を発揮することもできる。

ですから西洋騎士の日常の武術訓練は、弓射や徒歩の早駆けではなく、専ら、アーマーの重さに負けずに大剣や斧などを延々と振り回し続け、馬を操り続ける、筋力トレーニングだったに違いないのです。
(58~60頁)

◆「第1章19節:第一次大戦の下地」より

第一次大戦が勃発したときの英国のように徴兵制が無かった場合でも、大学生(ほとんどが上流階級に所属する男子)はこぞって志願して、短期訓練にて初級将校(少尉)となり、じっさいに、労働者階級からあつめられた下士卒よりもはるかに高率で塹壕戦の華と散ったのです。

この大学生を供給した中等教育機関が、近代のパブリックスクールですが、どうもパブリックスクールは、少し「騎士幻想」を育てすぎていたかもしれません。

(中略)

ナポレオン戦争までは、士官が蛮勇を発揮してくれることに不都合はありませんでした。むしろ歓迎すべきことだったんですが、ボルトアクション連発ライフルと機関銃が普及していました第一次大戦では、これが戦術的にすっかり裏目に出た。累々たる士官の死骸の山がいたずらに築かれてしまい、英国では、肉体的・精神的に最良の若者が、一世代分、消えてしまったのであります。現代戦では、臆病は一つのスキルなのだ、かつての騎士の精神は戦車のアーマーを借りないと発揮できないのだとヨーロッパ人が反省したのが両大戦間期です。

貫通力の高いライフル弾を矢継ぎ早に発射できるようにした19世紀後半の銃器の工夫、これによって、「騎士的な振る舞い」が現代の戦場では途方も無くリスキーになったと、遅まきながらに自覚された。その問題意識から、かつて戦場では不死身の存在に近かった中世騎士を再現しようとする合理的な努力が英国では孜々として重ねられ、幾つかの重装甲の戦車が戦間期に開発されることになったのはさすがというべきでしょう。
(67~68頁)

◆「第1章7節:「弩」は東西騎兵の性格を分けた」より

遊牧民にも翻弄されず、逆に押し返せるだけの、つまりは敵よりも十分に多い数の弓騎兵をシナ王朝側がなんとか準備し、北狄にぶつけようとするのは、GDPの歴然たる差からして、不可能ではなかったでしょう。しかし、農耕民の生活スタイルと何の関連もないその非生産的な大騎兵集団を、常時維持し続けることは、とても非現実的で不可能なことでした。

だいたい、そんなに多数の人と馬、その元気満々の生産力資源を、開墾や商業に動員せずに平時にずっと徒食させておくことがいかにも税金の無駄でしたし、辺塞で閑居した騎兵部隊が匪賊化または軍閥化して逆に中央政府に反抗するかも知れません。

中央政府としては精鋭の多用途騎兵をむしろ機動近衛予備軍として首都近郊にだけ控置したいところですが、それだと国境の八方から隙を窺う遊牧民軍に攻撃のタイミングのイニシアチブを容易に握られてしまうのは自明。――もう大ジレンマです。

この難問をシナに於いて解決してくれたのが「弩」の発明でした。前述のように、弩が紀元前4世紀のシナで発明されたことはほぼ定説であります。
(31頁)

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