◆目次
●第一章:出向
●第二章:千葉黎明高校
●第三章:文化の違い
●第四章:生産ビジネス科
●第五章:読書
●第六章:進路指導
●第七章:法政大学との高大連携
●第八章:モンスター新入社員を生んだ学習指導要領
●付章:校長室だより
*注~~第八章までで88頁。付章は89~203頁。
・前校長との引き継ぎでは、A4用紙に「鍵の本数」と「2、3の事項」が記されたメモ1枚を渡されただけ。「運営はどうすれば?」の問いには、「好きなようにして下さい」とのこと。銀行では、担当レベルの引き継ぎでも現金、有価証券、契約書は当然のこと、懸案事項、各取引先との取引状況から配下行員の状況まで、事細かに行ったものだ。
・あまりのフリーダムさに驚き、他校の校長に聞いてみたら、「教員は校長になって初めて、自分のやりたかった教育ができる。だから後任を敢えて縛らないようにするのだ」とのこと。事情はわかるが、このような運営を続ける限り、蓄積したナレッジや文化も引き継がれることはない。千葉黎明高校でも、80年の伝統を感じさせるものは旧講堂と古い楽器といったハードだけで、学校運営のソフト面では何も伝えられていなかった。
・ビジネスの世界では社名はある程度重視されるが、学歴はほとんど顧みられない。一方、教師の世界では驚くほどの学歴が重視されている。某県教育委員会に勤務する友人曰く、「教員は勉強しないから、大学を出た時点から進歩していない。したがってどこの大学卒かを聞けば、その教員のレベルは大体見当がつくからだ」と。
・「教員の世界では勉強しつづけなくても何とかやっていけるという、理解しがたい事実があることに驚いた。生徒には『勉強しろ』と言っているのに、自分は別なのだ。しっかり勉強している教師と、そうでない教師が同列に扱われている。もちろん、不勉強教師は陰で馬鹿にされている。しかし、表面上は同じ処遇となっており、昇給のペースも変わらない。私がこのことに疑問を呈すると、かなりの数の教員から『そうはいっても、同じ仕事をしていますから、差をつけるのは難しいですよ」というネガティブな反応が返ってきて、逆に驚かされた」
(中略)
「生徒を評価するが、自分たちは評価されたくないという不思議な感覚が、学校の中では大手を振ってまかり通っている」(26~27頁)
・教育の質を向上させるには、教員にもっと勉強させる必要がある――と考え、様々な研修や研究会を実施してきた。大方の教員から肯定的な感想を得られたが、一方で「教師を生徒のように扱って、不愉快だ」と立腹した教員もいた。本当に勉強が必要な教員は、部活などを口実にはじめから顔を見せなかった。勉強する教員はさらに勉強し、そうでない者はほとんどしない。両者の落差が大きいことは、常に悩みの種であった。
・最後まで馴染めなかったのは、同僚に対して呼びかける「先生方」という表現。外部の人間に用いるのであれば、何も問題はない。しかし、校内行事などの後で、他の教員たちのように「先生方、本日はどうもお疲れ様でした」と語りかけるのは、どうしてもできなかった。どう考えても「皆さん」だろう。しかし、この用法は教育会では全く当たり前のことなのだった。
・「もうひとつ、最後まで理解できなかったことに、『根拠なき自信』がある。一例をあげると、着任して間もないころの会議で、いきなりあるベテラン教員から、『校長は企業にいたから汚いことをやっていたのでしょうが、学校は違いますよ』と切り出されたことがある。私は思わず机をたたいて、『あなたは、私がどういう仕事をしてきたか、知っているのですか。汚いことと言うからには、その根拠を示して下さい』と言ってしまった。彼の返事は『企業というのは、汚いことをするものです』だった。何をもって汚いことと言うのはについても、言葉をにごした。要するに格好をつけたかっただけかもしれない。しかし、この一件で、私は、何の根拠も示さず、自分の価値観で物事を一方的に決めつけることに違和感を覚えない人たちの存在を、初めて知った」(30~31頁)
・職員会議でこちらの提案に反対しておきながら、対案をたずねると、「それは管理職が考えることでしょう」と胸を張って答えたベテラン教員もいた。対案なしの反対など全く経験したことがなかったので、最初は冗談かと思った。しかし、このようなことに一々目くじらを立てて敵対していたのでは、学校は良くならない。教員という人種は企業人とは違う訓練を受けた(もしくは受けなかった)から、思考形態が異なるのは仕方ない――と割りきって対応するようにした。
・企業から学校現場に来てもっとも驚かされたのが、教員のほとんどが「価値をはかる物差しは一つしかないと信じている」という事実だ。教員たちはただ一つの価値、すなわち成績しか信頼しない。自分のささやかな経験でも、数万人が受けるFP試験で全国トップクラスの成績を収めた行員が、営業成績では行内下位だったという実例を挙げられる。テストの成績と仕事の力量は相関しない。しかし、教員はそう考えない人がほとんどだ。自分たちの知っている世界が、全ての世の中と共通していると思っているか、思いたいのだ。
・本を読まない教員はけっこう存在している。授業をルーチンワークと捉えれば、本を読まずともやっていけるからだ。教科書の解説は、教師用のアンチョコである『赤本』を読んでおけば何とかしのげるということも知った。しかし、それでは生徒が満足する授業はできない。中には堂々と「私は、子どものころから本を読むのが嫌いでした」と言い切った英語科の教員もいた。彼の報告書を読むと、まるで日本語になっていない。読書量の少なさは歴然としていた。
・国語科の教員が参加した研究協議会で、他校の『朝読書』という運動を知った。「これだ」と思ったので、早々に図書部長を呼んで、「来年度から、本校も朝の十分間の読書をやろう。ついては図書部が中心になって準備してほしい」と伝えた。返ってきた返事は、「そんな短期間での準備は無理。既に実施している他校の状況を調べ、校内のコンセンサスを図るには、1~2年の準備が必要」だった。
・「二ケ月も準備期間があると考えていた私は、認識の違いに愕然とした。銀行であれば支店内の作業手順変更のようなレベルだ。この程度の変更なら、準備に一ケ月かけることもない。世界中に散らばった支店や現地法人に説明するわけでもないのに、『一、二年の準備期間が必要』とはよく言ったものだ。しかし、これが教員の常識なのである」(49頁)
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