以下、『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』で語られていた薀蓄について、『あたらしい武士道』からのパク……いや、剽……、いや盗……、いや引き写……じゃなくて、ごく客観的かつ公平に見て、「どうも良く似てるナァ」と思われる部分の抜粋です。映画で出てきた順番にあわせて紹介します。
◆「第1章8節:日本の武士が「鮮卑」に似る理由」より
弩の最大の長所は、訓練のコストが要らぬことです。昨日畑から連れてきた素人の男も、三日訓練すれば一人前の弩手にできます。
(中略)
新兵には、隊伍を組ませたり、フォーメーションのドリルを覚えこませるのがむしろ手間です。
(中略)
対して、弩を操作する腕前は、訓練を中断して十年くらい経ったってそんなに鈍るものじゃないですから、必要があればまた急速動員すればいい。国庫および民生経済にあまり負担をかけません。
これが他方の弓兵や騎兵や槍兵では、なかなかそうもいきません。彼らは訓練を中断すると、たちまちスキルが低下し、有事に動員しても、すぐには使い物にならぬからです。
(中略)
この条件がありましたために、シナではヨーロッパ式な「騎士」階級は生ぜず、ことさらに高い社会身分とは排他的には結びつかぬ「騎兵」のみがあり得ることになったのでしょう。つまり圧倒的な弩徒兵の集中は、後のスイス傭兵隊の長槍方陣と同じで、少数の重装甲騎兵など無力な存在だと人々に思わせてしまった。多数の弓騎兵ならば弩徒兵に対抗できますが、そこまで多数だともはや特権階級ではなく、しかも間違いなく匪賊・軍閥化して、漢人の匈奴を製造するに等しい……。
かくして、シナに「騎士」身分が育たず、後漢のあと、三国~五胡十六国時代から隋・唐にかけまして、満州の狩猟民たる鮮卑系の支配者が相次ぎましたことは、日本の「武士」の誕生にも決定的な影響を及ぼしたように思います。
すなわち、「中原の広域統一王朝にとって≪重装甲騎兵≫は金喰い虫であって、なければないでよい」との価値観。それからまた「≪乗馬本分者≫の本領は騎射である」との価値観。――この二つの価値観が、三国から唐代にかけて大和朝廷にもたらされたのではなかったでしょうか。
(32~35頁)
◆「第1章10節:なぜ日本の武士は「弓馬の道」だったか」より
ところで、一時的ですが、大和朝廷でも隋や唐に倣って、奥州の「ゑびす」の抑え用として、弩徒兵を整備したことがありました。けれども、高温多湿の日本の気候では、複数の素材を膠や腱でくっつけている合成弓の性能劣化が急速に進んでしまいます。倉庫にしまっておいただけでも経年劣化が著しい(平安後期に発達する重藤弓も防湿のための漆塗装が必須でした)。
(中略)
それで国庫の負担の割には、弩が、日本古来の長大な梓弓よりずばぬけた軍事パフォーマンスを示すことはなかった。
というのも戦場が、軍隊の密集機動をとても許さない錯雑地ばかりで、ターゲットも在来馬で、高速機動なんかしないからです。
(40~41頁)
――この後、『ヤーボー丼』からのパク……いや、(略)な薀蓄が紹介されます。で、宮本武蔵と武士道との関連についての薀蓄で、再度、『あたらしい武士道』からのパク……いや、(略)な薀蓄が紹介されます。
◆「第1章20節:近代日本の危うさ」より
次が日露戦争(明治37~38年)で、ここでも白兵戦は起きない予定だったんですが、なんと想定外の旅順要塞攻略戦で、激しい白兵戦が起きてしまった。日本は白兵戦の準備も何もしていないで、火力を恃みに旅順の山頂に近迫した。すると、ロシア兵が塹壕からいきなり一斉に飛び出して、銃剣の槍先を揃えて逆襲突撃してきました。ロシア軍だけでなく、当時のヨーロッパ軍は、こういった白兵戦がじつは十八番だったんですね。
(中略)
そのために旅順では、武士家系の将校だけがサーベルを片手に踏みとどまりましたが、平民を徴募した下士官と兵隊はみんな露兵の気迫に懼れをなし、背を向けてスタコラ逃げ散った。こんな光景が旅順要塞帯のあちこちで繰り返し見られたんです。
(中略)
日本政府としては、早急にこの国民の精神的な不安を取り除かなければならなくなったわけです。ではどうしたら良いか。何か参考になるものが捜索されました。
見出されたスローガンが「武士道」でした。この言葉は、日露戦争前後に日本語になったものです。
読者には意外かもしれませんけど、明治末まで「武士道」なんて日本人は知りませんでした。もちろん文献をあらいざらいひっくり返せば昔々にその熟語が使われていることが分かる(佐藤堅司『日本武学史』は天正頃の初出とす)。しかし日本人の意識の上では少しも一般名詞じゃなかったんです(古川哲史は、江戸期の『常山紀談』には一回も出てこぬと指摘)。
新渡戸稲造の「BUSHIDO」は明治32年(1899)にアメリカで英文で書かれ、米国内のインテリにだけ知られていました。明治34年の足立栗園著『武士道発達史』は、この自著以前に日本国内で武士道の沿革を論じた人はおらず、ただ新渡戸氏の英文があるだけだ、と認めています。
その新渡戸の仕事が遅まきながら和訳されて日本国内で急に刊行されましたのが明治41年です。この出版事業は、日露戦争後の政府の要望に沿っているんです。
宮本武蔵のまともな伝記が書かれて印刷されたのも明治44年で、紛れもなくこの国策の延長上にあります。それ以前は宮本武蔵は剣術家しか知らぬ存在でした。
(72~74頁)
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