以下、『宮本武蔵‐双剣に馳せる夢‐』で語られていた薀蓄について、『ヤーボー丼』の「附録・研究ノート:『五輪書』にあらわれた日本語的軍事理性を見直す」からのパク……いや、剽……、いや盗……、いや引き写……じゃなくて、ごく客観的かつ公平に見て、「どうも良く似てるナァ」と思われる部分の抜粋です。映画で出てきた順番にあわせて紹介します。
◆『ヤーボー丼』、「附録・研究ノート:『五輪書』にあらわれた日本語的軍事理性を見直す」より
(22)「一人の敵に自由に勝つ時は、世界の人に皆勝つ所也。」
(23)「一人と一人との戦ひも、万と万とのた丶かいも同じ道なり。」
『五輪書』成立の必然性は、原著者が一生を「小者なるもの」で終わる気がなかったところにあった。彼が右のようなことを他の箇所でも何度も口にしているのは、決して己れの剣術に箔をつけようとしてではなく、後段の「万と万との戦い」こそ彼の夢見たものである。晩年、細川家仕官に先立って差出した書状に、住居はどうでも構わないが出陣時の乗換え分をも含めた馬だけは、と念を押して頼んでいることや、死後装束として甲冑を遺言したことを等を考えても、彼の生涯の夢は、戦場の功名によって、大・小名かそれに準ずる「大身」になることだったと断じられる。その夢が彼の操刀法をも、常に自ら馬上になることを念頭に修行させたのである。しかもその基礎ができたのは、彼の左手のできあがり具合から考えれば、年少時代にまで遡る。そんな頃から馬上の立身だけを夢見ていた男にとって、徒立ちでの一対一の斬り結びなどは、むしろ小さな意義しか有しない。彼の「兵法」の主眼もあくまで領国軍政の術にあったことを我々は認識しなければならない。
(183~184頁)
(47)「太刀のとりやうは、大指ひとさしを浮ける心にもち、…小指をしむるに心にして持つ也。」
ここで説明されている事は、江戸時代から今日に至るまで、連綿と道場で教えられている基礎とか聞く。ところで、このような着意は、太刀の柄を両手で握って扱う場合、全く無用なのではなかろうか。素人なりに思うに、長い柄を両手で手と手の間を開けて握り締めるなら、どの指に一番力をいれようと、取り回し勝手に違いは生じまい。原著者によりここで言われている注意は、片手で刀を扱う者にとってのみ、死生に関わる重大着意となるのではないか。なぜなら、刀の切っ先を任意に制動できなければ、自分の乗馬の首を切り付けることになり、それは即落馬につながるから。また万一馬上乱戦中に太刀を取り落とせば、左右からの攻撃より自分の身を護る術はなくなる。少年武蔵は、実戦の場でそうした不覚をとらないよう、右手を徹底的に鍛えようとしたに違いない。だがいくら鍛えても、やはり右手だけ使っているうちにはいつかは疲れて動かせなくなると気付く。馬上出世を一途に夢見る彼は、もし実戦場でもこういう右手の疲労は来、めざましい働きができなくなってしまったらどうしようかと心配した。そこで、その場合はただちに右手の馬上刀を左手に持ち換えて戦い続けることに決めたのだろう。(186頁)
(48)「足のはこびやうの事、…常にあゆむがごとし。」
彼より後の剣法者がみな運歩法をうるさく言うのに比して、原著者は足づかいには全く冷淡である。単に「陰陽の足」、即ち爪先を地から離して一―二、一―二、…と踏んでゆく歩行のステップが、安定していて良い、というのである。足の運びなど知らずとも上体だけで勝つ、と言っているようにも読める。若い時からずっと武将の身分にあこがれ、馬上での切り結びを専ら念頭して練習を積んできた彼は、敵に寄る際は鞍の上なのだから、運歩法を考慮する必要はなく、上体を安定させることだけを考えたのである。
(187頁)
(16)「武士におゐては、道さまざまの兵具をこしらゑ、兵具しなじなの徳をわきまえたらんこそ、武士の道なるべけれ。」
(前略)
宮本武蔵は、慶長以降の太刀が、護身の為の抜き打ちに便利なように薄肉となり反りも弱まった中で、自分の得物には、実戦場で勝つための独自の改良を工夫していた。具体的な記述は無いが、若い時分より木刀をいろいろに削ってみたことは、彼に貴重な経験を与えたであろう。木刀はほとんど無反りだから、重さのわりにリーチが長く、しかも折れにくいものも自在に作れる。
(182頁)
(52)「右へ太刀をはずして乗り、…又敵の打ちかくる時、下より敵の手はる、これ第一也。」
(前略)
常に相手の手を狙うことは、原著者に限らず、真剣で戦う者の当然の着意であった。こちらの切っ先に一番間近で届き易いという事情もあるが、何より戦場では相手は必ず急所を防具で覆っていることを忘れてはならない。
(中略)
さて、馬上刀は歩兵に対しては下から振り上げるように切りかかった方が、馬の前進ベクトルも加わって目標の捕捉確率を増す。原著者は若い時、専らこれを練習していたであろう。(但し当時の日本の馬は身の丈が低いので、曲芸のような刀術は要請されない。)かくして片手で下から「すくひ上げ」るのが、切り下げと同じか、もしくはそれ以上に得意となっていた原著者にとって、両手で、しかも大抵上から下へしか切ることのできない相手の太刀を持つ手を「はる」事は、容易な技だった。
(188頁)
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