野村克也の時代から現在まで、スワローズの底流にある「古田派」「池山派」の派閥問題。FAで日本ハムに移籍した稲葉篤紀選手が、「ファイターズは派閥だったりそういうのもないですし、孤独感なんて全くないですね」と暗に語っていたように、巨人における早大閥vs慶大閥くらいに確固たるものとして存在しているものだが、当の池山は古田敦也をどのように捉えていたのか? 同著の小見出し「古田との関係」(142頁~)から、以下、読書メモ風に紹介する。
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新人時代の古田は不動の地位を確立しておらず、スタンドからの声援も少なかった。広沢が「たまには古田って呼んでやれ」と野次を返したこともあった。
同い年で同郷ということもあって、広沢が池山を酒に誘うときは古田も一緒に誘っていた。クラブでヘネシーをホステスのヒールに注ぎ、ジャンケンで負けた奴が飲むという悪ふざけや麻雀も良くやった。グラウンドの中でも外でも「仲間」だった。
しかし、翌91年、古田が首位打者を獲得すると関係も変わっていった。そのオフから広沢や池山と一緒に遊ぶことがほとんどなくなった。広沢が「おい、古田、今日は飲みに行くぞ」と誘っても、古田の方に別の約束が入っていることが多くなったのだ。タイトルを取り、不動の地位を確立すれば、自然と取り巻きもできて自分独自の人脈も出来てきたのだろう。
これは自分の想像だが、タイトルをとってプライドも生まれ、いつまでも子分のように広沢と池山についていくのではなく、自分の道を歩もうと考えたのかもしれない。グラウンドの外でかつての「仲間」のように付き合うことがなくなっていった。
古田はリーダータイプ。みんなより一段高い立場に立ち、たとえ自分が嫌われ者になろうとも、必要だと思えばいうべきことはズバズバいう。04年の球界再編騒ぎでは、こうした古田のリーダーシップがなければ乗り切れなかっただろう。
一方、自分はキャプテンタイプだ。みんなと一緒に騒ぎ、そのノリで「さあ、がんばっていこう」と盛り上げるタイプ。怖い存在ではないようで後輩もじゃれついてくる。欠点は相手に対して強くいえなかったり、情に流されやすいことかもしれない。
かつて広沢に何くれとなく面倒をみてもらい、ずいぶんありがたかった。広沢がチームを去った後は、自分が広沢の役目を果たさなければならないと思い、努力してきたつもりだ。自分の引退後は、宮本慎也や真中満がその役目を果たしている。
あえていわせてもらえば、自分にとって古田はライバル。同い年、同郷でともに野球を始めた。高校時代は自分の方がリードしていた。しかし古田は、二年目で首位打者を獲って自分に並んだ。そして現在、ヤクルトの監督と楽天のコーチという立場となり、古田が一歩リードしている。
古田がどう思っているかはわからないが、少なくとも自分にとっては、古田のような存在がいることが励みになっている。古田が監督として成功すればするほど、自分の目標が高くなる。
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池山が自分の想像と断って書いているように、「タイトルをとってプライドも生まれ、いつまでも子分のように広沢と池山についていくのではなく、自分の道を歩もうと考えたのかもしれない」ことが真実なのだろう。また、球団も早くから古田を幹部候補として育てていくことを決めていたのかも知れない。その後の広沢克実のFAは、事実上、球団が広沢を追い出したような形――池山によると、93年オフの契約更改のときに「フロントからプライドを傷つけられるようなことを言われていたのだった」(140頁)という――だったが、これが球団の意図したものか否かはどうあれ、結果的に古田が球団内でイニシアチブを取りやすくなったことは事実だろう。
ただ、古田と直接話し合うことの多い投手陣はどうあれ、古参の選手や野手陣にとっては、チームの柱だった広沢が追い出され、(古田自身に何の悪気も落ち度もないにせよ)球団やマスコミが「ヤクルト=野村&古田のチーム」という構図で持ち上げるサマは、決して面白いものではなかっただろう。こうした不満が“広沢の一の子分”であり、自他共に認めるキャプテンタイプの池山を「池山派」の長として祭り上げることになった――と、邪推しているのだが……。本人の意図はどうあれ、派閥ができるときはこのようなものではないのだろうか。なお、古田自身は著書で池山について特に言及していない。
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