「おまえは三振が多すぎる。一〇〇個三振するうち、半分をバットに当てて前に飛ばせ。そうすれば、そのうち何割かはヒットになって打率が上がるし、チームにも貢献できる。これからはそういうバッティングを心掛けろ」(123頁)
野村克也は池山に対して、直接このように諭したという。「ブンブン丸」としてフルスイングを続け、三振かHRかというバッティングで実績を残してきた池山にとっては、自らのプライドに関わる言葉だった。
「いつでもフルスイングしたい。しかし、『するな』と監督はいっている。理屈は監督の方にある。どうしたらいいのか……。ぼくはふたつの思いの間で悩んだ」
「ぼくには『監督は社長、選手は社員』という感覚があり、選手は監督のいうことに従わなければならないと思っている。だから結局、野村監督の教えに従う道を選択した。長打が必要のない状況やカウント2-0、2-1などではフルスイングを避け、ミート中心のバッティングに変えるよう努力したのである」(124頁)
結果、池山は初の三割バッターとなり、HRも34本から31本へと3本減らすだけに止まった。数字だけを見ればバッティングスタイルの転換は大成功に見える。しかし、心の中では全く納得できていなかったようだ。
「じつは、ぼくはテレビ局に頼み、第一号から第三〇四号まで自分が十九年間で打ったホームランのほとんどすべてを収めたビデオを持っている」
「それを見ると、ホームランバッターになり始めた頃は、いわば自然体の構えで、バットのヘッドがほぼ真上を向いている」
「ところが、野村監督の教えに従うようになってからしばらくすると、構えたときにバットのヘッドがピッチャー側に少し傾くようになった。ということは、当然スイングの軌道が大きくなり、フルスイングすればより大振りになる」
「ぼくは意識的にこういうフォームにしたのではない。フルスイングしたい。しかし、してはいけない。でも、やはり遠くへ飛ばしたい……そんな葛藤をするうちに力んでしまい、無意識のうちにフォームが変わっていたのだ」(125頁)
心理的葛藤からスイングが乱れた結果、三割を記録した翌年からは三振も増えたうえHRも減り、ケガにも悩まされるようになってしまった。19年間の現役生活を振り返ってみると、池山にとっては散々な結果に終わったバッティングスタイルの転換だったが、それでも潰れることなく、1500安打、300HRを記録したところは並みの選手ではないのだろう。もし、「ブンブン丸」のまま現役生活を続けていたら、あれほどケガに悩まされることもなく、長嶋茂雄のHR記録(444本)くらいは抜いていたのではないだろうか。
しかし、「ブンブン丸」を続けていれば、選手としては田淵幸一くらいのクラスの実績を残し、ヤクルトで不世出の人気者になっていたかも知れないが、コーチとしてお呼びが掛かることは決してなかっただろう。田淵幸一がダメ監督、ダメコーチ――HRのサインを出したり、うねり打法とかを教えたりする斜め上な指導者だった――であったように、「名選手は名監督ならず」を地で行くような展開になるか、あるいは「ブンブン丸」という色眼鏡で見られ、タレントとして扱われてもコーチとしては扱われなかった可能性が高そうに思える。
バッティングスタイルの転換は、野村監督と野村ID野球に心酔した結果で、結局、このことがあって野村が楽天監督に就任した際に打撃コーチとして招聘されることになった。池山を招聘した理由について、野村自身は「おれはもう七十歳や。プロ野球の世界を離れ、いったん社会人野球の監督をやったのに、この歳でまたプロ野球の監督を要請されるというのは、プロ野球の世界に監督としての後継者が育っていない証拠や。おれのもとでコーチをやらせ、将来の監督候補者を育てるのもおれの仕事や」(19頁)と語っている。実際、野村のミーティングをまじめに聞いてノートまで取っていたのは古田敦也と池山くらいだったらしい。しかし、敢えて下種の勘繰りをするなら、野村が自らの指導で名選手を潰してしまったという“贖罪”の意味もあったのではないだろうか?
ともあれ、指導者の言葉が選手の将来にどれだけの影響を及ぼすのか? 小手先の技術だけでなく心構えや葛藤が、どれほど身体的に大きな影響を与えるのか? を文字通り身体で知っていることは、指導者になるうえで大きなアドバンテージといえそうだ。
(つづく)
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