2011年7月14日木曜日

落合博満×駒田徳広:上から叩けの是非(その3)

*以下、特に断りがない場合は、駒田徳広の言葉は『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社)、落合博満の言葉は『落合博満の超野球学・バッティングの理屈①』(ベースボール・マガジン社)からの引用です。なお、上記書籍からの引用部分の末尾には(駒・●頁)、(落・●頁)と表記します。

1984年、駒田は王貞治監督と荒川博コーチの下、一本足打法に挑戦します。駒田は、「これにより体重移動の重要性を学んだ」とする一方で、意味のない練習もあったと述懐しています。

日本刀で紙を切るのは精神鍛錬や集中力を高めるための効果はあっても、バッティングとはまったく別物であるというのが僕の考え方です。
天井から吊るされた紙はある角度で日本刀をスパッと下ろせば切ることができます。それはむしろ金づちでクギを打つ動きに近いと言えるでしょう。あるいは斧で薪を割るのと同じようなことです。
斧も日本刀も最初から最後まで同じ角度で下ろします。そこには手首を返したり、ヒジを返したりする動作はありません。先に刃が付いたものは基本的に手首を返しません。そうした使い方をする道具をバッティングに応用すること自体に無理があるのです。
(駒・35頁)

と、アノ有名な日本刀練習をズバッと否定。以下のように主張します。

野球はダウンスイングでなければならないという理屈はありません。ボールを日本刀や斧で真っ二つにするわけでも、金づちで叩きつけるわけでもないのです(注~原文には明らかな誤植があったので、手前が勝手に修正)。
一番いいのはレベルスイングです。しっかり体重移動しながら、来た球を点ではなく、面でとらえること。面でとらえるとは、ボールの軌道に対し、バットを面で入れて振り抜くということです。来た球を上から打っても、下から打っても、点でしかとらえられません。
(駒・38頁)

そのうえで王はダウンスイングのバッターといわれているが、これは王の持つアッパースイングの癖を矯正するためのことで、打撃フォームの連続写真を見ればわかるとおりレベルスイングになっている――との見解を披露しています。

では、落合は<ダウンスイング至上論>に対して、どのような意見を持っているのでしょうか?

以前、社会人のトップクラスのチームでプレーしている選手から「理想的なスイングの考え方は、ダウンかレベルか、それともアッパーなのか」という質問を受けた。私にいわせれば、スイングをダウン、レベル、アッパーで考える時代は終わったと思う。たとえば、日本におけるスイングの考え方には、川上哲治さんが唱えた『ダウンスイング理想論』がある。これは、上からバットを振り下ろすことだと解釈されがちだが、私は“トップの位置を高く保てば、すべてのボールに対してバットを振り下ろすことで対応できる”ということを示したものだととらえている。
さらに、トップの位置が高いとバットのヘッドは下がらない。反対にトップの位置が低いと、高めのボールに対してグリップを寝かせて振り出さなければならない。すると、腕を上に振り上げることでバットのヘッドは下がり、スピードのあるボールへの対応には苦労する。こうした要素を考えた結果、理想的なトップの位置を見つけたわけだ。しつこく書くが、ダウン、レベル、アッパーという考え方は、今すぐ野球を考える頭からはずしてほしい。
(落・98~99頁)

8年前の著書にして、「駒田の見解は時代遅れ」といっているに等しいといえます。ただ、駒田がこのような主張をしたことには、<ダウンスイング至上論>が大流行していたなかで、コーチにタコなアドバイスを受けたり、アホな指導を受けた結果、迷走してしまったという背景があり、だからこそ「<ダスンスイング至上論>は間違いなんだって!」と力強く否定したかったという事情もあるんでしょう。駒田の主張に対しては、「古臭い常識を検証して異を唱えた」という功績は認められるべきと思います。

それに「上から叩けは正しいか?」は、実のところ駒田と落合の打撃論の“肝”でもありません。
(つづく)

落合博満の超野球学〈1〉バッティングの理屈(注:Amazonリンク)

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