・近代オリンピックに関与する唯一のアマチュア集団は、「観客」と「マスコミ」。古代ギリシャのオリンピックは、テニスの4大大会やサッカーW杯に近く、そこで見物している観客は全員競技をよく知る見巧者だった。場合によっては、だらしない選手の代わりを務めてやろうという、競技者と一体化しているような見物人が観客だった。
・一方、近代オリンピックは、ふだんは全く興味も予備知識もない競技スポーツを観戦しようと、突然、何億もの「見物のアマチュア」がテレビの前に集まってくるイベント。かかる近代オリンピックで尊重されるべきは、少数のプロではなく圧倒的多数の「見物のアマチュア」であろう。
・「この愚かな大衆とマスコミに、虚構のスポーツドラマをあてがうことで、金を稼いではならない。それこそは、クーベルタン男爵に対する最大の裏切りである」
「それには、たった1項の規定を新たに加えるだけでよかろう」
「『1人の選手は、1つの種目について、生涯に1度だけ、五輪にエントリーすることができる。ただし、前回のエントリー大会後に国籍が変わり、新国籍の取得後10年以上経ている者は、同一種目への生涯2度のエントリーが許される』――」(104頁)
・これによりオリンピックに登場する選手は全員ニューフェイスになる。観客も、五輪選手以外にもっと優れた選手が他にいるのだろうと知ることになる。ならば、金メダルはプロ選手が生涯かけて追い求めなければならない目標ではなくなる。生涯に1度の出場だからこそ、参加したことの意味はとても大きくなる。下位の者も、参加したという経歴だけで世界から注目されるだろう。
・全国高校野球大会というシステムが良くないと、立花龍司氏は警告している。コーチが16歳かそこらでの過早な仕上がりを求め、少年の身体と技量に破壊的でとりかえしのつかぬ作用を及ぼす結果、アメリカ人やキューバ人のように20代以後に大成できないという。
*都築注――現在では半分正しく半分間違っているように思える。沖縄水産の大野倫(イチロー世代)が“壊されて”以降、選手の故障や連投に対するチェック(=連盟、ファン、後援者からの監視)が厳しくなった結果、少年に無理をさせる風潮は少しずつ正され、現在では「高卒入団時にぶっ壊れていた」ようなことはほぼなくなった。仕上がりの早い高卒即戦力の選手がかつてほどおらず、選手の寿命も延びているように思える。かつては「高卒即戦力選手は30代前半、それ以外は30代後半で引退」というのが普通だったが、いまでは「30代後半は働き盛り。40代で活躍している選手も珍しくない」状況にある。もっとも、甲子園優勝投手の選手寿命が短いのは昔もいまも同じ。松坂大輔投手は今年で31歳だが、このところの不振は、スランプや体重増加など以上に「単純に選手寿命が尽きかけているのでは?」と疑える。
・体格の差がパフォーマンスにさほど影響を及ぼさないように見える競技スポーツの一つに、射撃がある。日本人として国際スポーツ大会に挑み、優勝した最初の日本人も射撃の選手だった。「村田銃」を発明した薩摩士族、村田経芳だ。銃器を用いる趣味は、特権階級のものであってはならないというのが、村田がスイスの国民皆兵制度を視てきてからの確信だった。
・村田は「村田銃」の改良・普及に意を尽くすが、これは商売を目的としたわけではない。安い近代ショットガンを田舎に普及させることが、自ずと国民の射撃訓練になり、スイス流の国民皆兵制度に近づくと考えてのことだ。結果、「村田銃」は1950年代までマタギが使うほど普及したが、銃による狩猟が低所得の大衆に根付くことはなかった。
・「これはある老舗の銃砲店主からうかがった話だが、戦前は所得に応じた狩猟免状があり、胸につけるバッヂの色でクラスを区別していた。最も納税額で上位のクラスの者だけが、所謂『旦那猟』ができるという仕組みだったそうである」(124頁)
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