・鳩山一郎の『スポーツを語る』(昭和7年)によれば、いま、アメリカの大学アメフトで年間20~30名が死んでいる。タフト大統領の息子もその一人だったが、タフト曰く、「年にたった30名の犠牲でアメリカ精神が養われているのは安い」と。米国にサッカーが広まらなかったのは、サッカーがカトリック文化と結びついているように見えたからという見方もある。
・日本のスポーツが大衆のものになったのは大正時代のこと。日本一を決める全日本選手権大会は、ゴルフが明治40年にアマ選手権を開催したのが最初。偉い人が「天下一」の称号を授けたり、庶民が勝手に「番付表」をつくったりするのではなく、オープンかつ公正な試合で「日本一」を決するという発想が近代的。
・なぜ、サッカーではなく野球だったのか? その理由について。一つはボールをどこまでも蹴っていける土地がないこと。平地のことどとくが水田か畑で、誰も自由に立ち入れない。いま一つは多雨であるため、平らな荒地がないこと。
・かつて関東の台地では、2.5mのススキが生い茂っていた。和弓が上下非対称となる照準技術上の不利を忍んでも2mもある長い道具として受け継がれてきたのは、狩猟の際、葦のあいだから先端が出て、仲間の合印となる便宜が大きかったからだろう。
・もちろん土地や気候だけが全てではない。中谷重治の『体育運動の起源と発達』(昭和4年)によると、野球は明治11年の日本人にとって、初めて野外&団体で行うゲームだった。それまでは武道の稽古か狩猟、神事しか集団スポーツはなかった。
・「チーム全員のポジションと役割が幾何学的・システマチックに決まっている舶来の遊びを見て、当時の日本人は『これこそ学ぶべき近代だ』と思ったのだ。われもわれもとボールを奪い合うような他の舶来スポーツは、とても近代的とは見えなかったのだろう」(61頁)
・支那事変直前に職業野球がスタートしたことは幸運だった。戦時中、他の享楽的消費が規制されていたおかげで、野球人気はプロ・学生とも異常に盛り上がったからだ。支那事変が起きなかったとすると、昭和9年に本格的にスタートしたアメフトが、一部の大学に根付いたかもしれない。
・『巨人の星』はタイ・カップのエピソードと重なるところが多い。「子ども時代のルールはぶっつけあり(=魔送球)」、「スライディングキャッチをするので親指はいつも血まみれ=血染めのボール」、「這ってホームイン=花形が大リーグボール1号を打ったとき」、「逆スピットボールで、バットは必ずその下を空振りしてしまう魔球ナックル=ダイリーグボール3号」。梶原一騎は、大リーグをよく取材してストーリーを組み立てていたのでは?
ビーンボールと死球についての提案。「投球が打者を直撃したとき、打者は一塁への進塁ではなく、本塁打を1本放ったのと同じ扱いを受けるようにすることである。打者が投手のせいで稀に重傷を負うリスクと、打者に球を当てれば必ず本塁打を献上したのと同じことになるピッチャー側のリスクとは、何シーズンかを通して均せば、つり合う。したがって、乱闘の必要はなくなる。この新ルールの下でもビーンボールを投げてしまうような投手は、自分の成績やチームの成績をおそろしく不利にするから、すぐに起用されなくなる」(77頁)。
*都築注――いかにも軍師らしい提案。「死球全部ではなく危険球(=頭を直撃する死球)を対象に導入して、あわせてマウンドを数十cmホームベース寄りに近くする」というルールにすれば、より適切ではないかと。マウンドをホームベースを近づけるのは、危険球ルールの厳罰化によりインハイの投球が減り、より打者が踏み込みやすくなり、結果として打高投低になってしまうことを防ぐため。
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