◆誤訳戦記とホンダの空冷エンジン
・本田宗一郎は、バイクからクルマへビジネスを拡大する際、空冷エンジンに固執した。反対する部下を言いくるめるための理屈が「ドイツの戦車部隊は空冷だったから、ロンメルは大活躍できた」というもの。
・最初から空冷でいくと決めていたため持論の補強に用いたに過ぎないだろうが、繰り返し言っているうちに真実と思い込んだ節がある。
・もちろんドイツ軍の戦車は、空冷ではなく水冷四サイクルのガソリンエンジンだった。空冷が使われていたのはイタリア軍の戦車とアメリカ軍の軽戦車のみで、お世辞にも活躍したとはいい難い。では、本田の信じた「ドイツ戦車は空冷エンジン」というハナシはどこから来たのか?
・ロンメルが活躍した北アフリカの戦いはイギリス軍にとって最後の光輝といえるものだった。だからこそイギリス人史家は、この戦いをドラマチックに取り上げた。
・さて、イギリスは工業大国だったが自動車産業はアメリカの後塵を拝していた。対独開戦前までのイギリスの戦車は、水冷エンジンの冷却がうまくいかず苦労していた。一方、ドイツの戦車は水冷エンジンの放熱問題で全く悩んでいないように見えた。
・これに感銘を受けたイギリス人は、「ドイツの戦車は<クーリングシステム>が優れていた」と筆を揃えて賞賛した。<ラジエター>といわず<クーリングシステム>といったのは、イギリスでは専門家が一般向けの本を書くときには、できるだけ「学界用語」を避けるという慣習があるため(アメリカとは全く逆の現象)。
・昭和30年代には、こうしたイギリス人の北アフリカ戦史が和訳される。その際、<クーリングシステム>とあるところが<クーラー>と訳されることが多かった。このため当時の読者には「ドイツの戦車にはエアコンがついていて、乗員は涼しく戦闘できた」と勘違いしている人が少なくない。
・若き本田宗一郎は、この<クーラー>を、空冷エンジンの送風機の誤訳だと深読みしたのではなかったか? <ラジエター>と正確に訳されていたら、ホンダのクルマは最初から水冷路線となって、日本の自動車産業の構図も少しは変化していたかもしれない。
◆輸入できなかった“正統派”戦略論
・マハンはクラウゼビッツ理論から刺激を受け、『戦争論』を海上にあてはめるところから出発して、遂に現代海洋戦略論の祖という名声を獲得した。日本海軍は秋山真之を通じてマハン理論を受け入れたが、マハン理論の背景にはクラウゼヴィッツだけでなく、大英帝国史やローマ帝国史があり、それらをひっくるめた各国別の地政学が完成しつつあることまでは、研究が及ばなかった。
・「公海の内水化」「分割して統治せよ」「二方面作戦を避けよ」といった知恵は、全て古代ローマ人が書き残した教え。英国もソ連もこの最も古い準則に従って行動しようとしたに過ぎない。これを踏まえていなかったからこそ、日本の軍部は列強の次の言ってを最後まで読み間違った。
・欧米人は第一次大戦の結果から軍事理論体系の反省(『戦争論』の再評価)を試み、その混乱の中からリデルハートが「間接的アプローチ論」を生み出す。これは『孫子』のあまり精緻ではないテキストからダイレクトに影響を受けたものだった。
・日本の陸海軍は、第一次大戦後も『戦争論』の再評価をせず、その下流にあたる戦術、戦技についての悩みを深めたようだ。そしてどういうわけか、明治生まれの海軍人において、禅の世界への傾倒が非常に目立った。
・山路一善などは禅の公案をタイトルにした『隻手の声』という本を上梓したほど。これはアラブの古諺「人は片手で拍手することはできない」をそのまま翻訳したもの。他の公案も深い意味はない。およそ軍人がのめりこむような問題ではなかった。
◆戦後の軍歌はなぜつまらないか
・膠着語の自然な口語では、文末が用言で終わることが多い。この用言止めを使って詩を作り曲をつけようとすると、メロディの一フレーズが終わる相当前から、フレーズにあてられている詩の行末(一文の意味)が聴く側に推定されてしまう。詩文の与える感動と旋律の与える情動が一致せず、感作力が薄まってしまうのだ。
・英語(欧印語)ではこの問題は起こらない。口語でも文語でもたいてい文末に体言や名詞句がくる。フレーズと詩の区切りが“同時弾着”になるので、歌の持つ感作力がより大きくなる。加えて英語では、どんなに不出来な詩でも、緩急強弱さまざまな音符・調子に乗せて歌いやすいという点で、他の欧印語を圧倒する自在性がある。
・日本語の歌でこれに迫ろうとするためには、二つのアプローチがあろう。一つはテンポを非常にゆっくりにすること。もう一つは意図的に体言止めを多用した文語で詩を作ること。しかし、明治以降、世の中万事スピーディになると、地唄や小唄のテンポで唱歌や軍歌をつくつことはとうてい不可能になった。そこで唱歌や軍歌には体言止めの文語が多用された。
・この手法は、戦後、演歌や初期の左翼運動歌に短期間引き継がれたが、70年代安保終了後急速に消えていった。
◆ビジネス書のタイトルが示す“日本型組織論”の盲点<1>
・戦時中、兵器増産に追われた軍工廠は、米国の科学的管理手法を必死で研究した。戦後になると米国式経営管理ソフトの直輸入が図られた。
・米国では企業経営者が戦時に軍の指揮官に横滑りしたり、平時にはその逆の転身も普通に見られ、本来軍用であるハード、ソフトも経営管理に応用されている。
・60年代以降は、米国経営学の直輸入に対する疑念や日本式経営の再評価の機運が反映され始める。と同時に、日本の企業風土にマッチした経営学のヒントを、日本古来の兵法や旧軍参謀システムの中に見出そうとするビジネス書も出てくる。
・このトレンドを大爆発させたのが山崎豊子の長編小説『不毛地帯』。この連載が始まると、早くも「参謀」というキーワードを取り込んだタイトルのビジネス書が出始める。ビジネス書ではないが、中公新書の『ドイツ参謀本部』(渡部昇一著)もタイムリーに上梓された。
・小説の第一部が完結した昭和51年以降は、毎年一冊以上は必ず「参謀」絡みのタイトルを持つビジネス書が出版されるようになる。また、「参謀」ブームに便乗するように、日本古来の兵法をタイトルに謳うビジネス書も点数を増していった。
・70年代末から80年代末にかけては、日本経済の躍進と米国経済の低迷のコントラストがハッキリとしたため、日本的経営を再評価するタイトルが頻出する。バブル絶頂期を迎え、かつての米国流組織経営に学ぼうという姿勢は、日本型組織の自画自賛にすっかり置き換わる。これは“不毛地帯の勝利”というべき現象だろう。
・『不毛地帯』は主人公が社内に強力な参謀組織を構築。ワンマン経営を終わらせ、旧陸軍流組織のVサインをもって完結する。しかし、山崎豊子は旧軍にも現代の大企業にも、日本人のつくっている組織には独特な共通点があり、この共通点が米国流組織との競争では対抗不能の弱点にもなり得ることには注意を向けなかった。
◆ビジネス書のタイトルが示す“日本型組織論”の盲点<2>
・日本軍は米軍に敗れた。これは日本軍の組織のソフトウェアが、米軍のそれに敗れたということ。しかし、戦後のおびただしいビジネス書は、ついぞその両者のソフトウェアの本質が何かを抉り出すことはなかった。
・旧軍を貫いていたのは、「非家族組織における“養老”の風習」だった。これは戦後の日本企業にも丸々生き残っている。しかし、それを指摘することはビジネス書のユーザーである経営者を怒らせただけだったし、日本文化の否定というラディカルな結論にもなって、論者の人格的中庸が疑われる危険があっただろう。
・一方、米軍の組織の本質は「マニュアル」にある。アメリカのリーダーたちは、良いマニュアルを策定することで、大勢の弱卒を有能な強兵と同じように行動させる。
・良いマニュアルを策定するためには、部下以上の洞察力と言語能力が必要。「できる者」が自分の獲得した秘術を科学的に分析したうえで、「できない者」の立場にたって説明する必要がある。
・こうした良いマニュアルの威力は絶大。だから、米国の組織はマニュアルを策定できる才能を見出し、リーダーとして処遇して力量を発揮させる。
・ところが日本では、部下や後輩が上司や先輩をサポートするのは当然という考え方で、社会組織の全てが動いている。儒教圏の中国、韓国でも、血族でもない限りここまではしない。それが当然視される「非家族組織における“養老”の風習」は、儒教圏でも日本だけの組織文化。
・部下の上司に対する“養老”が与件となっていると、上司が部下をよりよく働かせるために、良いマニュアルを策定する必要がない。だから言語能力も評価されず伸びることはない。こういうわけで日本では、首相や司令官や参謀は、部下にとって言語的に“idiot”でも務まるのだ。
・ことほどさように「養老組織」と「マニュアル組織」は水と油。「養老組織」である日本企業が「マニュアル組織」を摂取することなど、はじめからできることはなかった。零戦、大和といった既存技術の延長線上での極端化でしか武器の開発を進められなかったのは、高級参謀の頭に染み付いているが故にことさら説明をしないですむものだから。
・多くの日本人は、自己のマニュアル策定能力の不足を自覚するがゆえに、ナンバーワンになることを恐れている。そこで、トップの次に位置し、トップから相談された課題を一所懸命に答解してみせるだけで全組織から有能と認めてもらえるポジション――という勝手な「参謀」像を抱いている。
・日本はそもそも米国の科学技術力に敗北したのか? それ以前に各級リーダーの言語能力において、日本人は米国人に完敗していたのではないか? そして、いまもなお米国人に負け続けているのではないか。中卒後、ただちに大学受験ができるような“学制破壊”でもしないかぎり、この言語能力の差は永遠に埋まらないように思われる。
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