2010年12月24日金曜日

<絶版兵頭本>紹介@『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』:その3

◆大阪府
・万博公園:近代日本においては早くから近畿地方を筆頭とした西日本に、あなどり難い遊園地文化、イベント先取の伝統があった。かつて名古屋市が、そしていま大阪市が将来のオリンピックやら何やらを誘致しようとしているのも、こうした下地に想い致すと、住民に抵抗がないことがわかる。

◆岐阜県
・金華山:ロープウェイ山頂駅から岐阜城(コンクリート製のレプリカ)までは、普通の足で5分以上、老人だと10分くらい石段のある坂道を歩く必要がある。小雨プラス木の葉しずくで傘が手放せず、気温も山頂部で25℃以上ある感じでどうにも参った(訪問は6月下旬)。このくらいの気候でなければ中世に多収穫の米作はできなかったのだろう。『少年倶楽部』の名作選の中に、岐阜城かどこかの門の近くまで馬で駆け上った戦国武士の話があったが、この急な山を滑らず潰れず走ってくれた馬なんて当時いたわけがない。自身山歩きをせぬ現代の歴史小説家はよほど自戒が必要だ。

◆熊本県
・西阿蘇:阿蘇山の名は、長野県の浅間山などと語源が同じで、火山を意味する古代の日本語の転訛らしい。4線交走式は3線交走式と同じようなつるべ駆動だが、太い支索を2本倍加したもの。有体にいえば「万々が一、支索の一本が切れたとしても、ゴンドラは落ちません」と注文主や利用者に向かって強調したシステム思想。戦後のワイヤー技術では、支索1本でも安全係数はたっぷりすぎるほどで、強風などの原因で切れることは考えられない。外国の戦闘機が超低空飛行で支索を切るような(チェルミス・ロープウェイ切断事件のような)がアクシデントあったとすれば、4本だろうが何本だろうが無駄だろう。

◆群馬県
・草津・白根:日本で最初のスキー用リフトは、昭和23年に草津・天狗山に設備されたもの(ただし、札幌・藻岩山と志賀高原・丸山には米軍人用のものがあった)。日本の積雪地方にこれ以後、スキー用リフトが急速に普及したことの文化的影響は、革命にも等しかった。いまのスキー場は、だいたい昭和32年以前は、単なる「雪の降る温泉地」に過ぎなかった。その頃まで積雪地方の湯治といえば、客は旅宿に降り込められたまま、ひたすら「寝ぐい」をするだけだった。スキーリフトの出現は、雪国の冬の退嬰的気分を一変させた。有史以来はじめて、日本の冬は、することのないシーズンではなくなったのだ。リフトが新しいスキー場の開発に道をひらき、それで北国のたくさんの田舎から「出稼ぎ」をなくした功績も、強調し尽くせないものがあろう。昭和30年以降に生まれた現代日本人には、かつての雪国を理解する情緒的基盤はハナから失われているのである。

◆埼玉県
・三峰山:車内持込禁止手回り品の注意書きに「死体」とある。誰が死体を持ってロープウェイに乗ってくるのか? といぶかしんではいけない。三峰ロープウェイは戦前からある古い路線。この掲示内容も古い伝統のあるものと推量する。江戸時代、幕府の設けた関所では、特別な手形がない限り、死体が通過することを禁じていた。そういう名残が戦前の日本の駅には残っていたのではないか。
(つづく)

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