2010年12月6日月曜日

井口資仁、「二塁手論」:その3

野球選手は何のために素振りをするのか? 何のためにティーバッティングをするのだろうか?

「そりゃ野球が上手くなるためだろ」
「もっと打つためじゃないか」

それはそれで正解だが、答えとしては少し大雑把過ぎる。では、なぜ素振りをすると野球が上手くなるのか? 素振りをすることでバットを振る筋力をつけるためなのか? バッティングフォームを身体にしみこませるためのか? あるいは「練習した」という既成事実を積み上げることで自信を深めるためなのだろうか?

簡単そうで難しいこの問いに、井口選手は明快な回答を出している。

「素振りやティーバッティングまで含めれば、今までに何十万回バットを振ったかわからないが、それでもバッティングフォームはよく変わるものだ」
「フォームはデッドボールを受けても変わるし、フリーバッティングで誰かとホームラン競争をしていただけでも変わる。不調が続けばもちろん変わるし、好調が続いても変わる。
いや、そういうことが何もなくても微妙に変わってしまうものなのだ」

「僕が自分のバッティングを毎日チェックするのは、その自分の軸に戻るためだ。毎日チェックしても、フォームは毎日変わる。微妙にズレる。自分の軸を確立したと言ってもその程度で、自分を見つめることを忘れたらそんなものはあっという間に崩れてしまう」
「経験を積んだ野球選手ならみんなそのことを身体で知っている。だから何年野球を続けようが、飽くことなく素振りを繰り返し、ティーバッティングをするのだ」(157~159頁)

何を当たり前のことを、と言われるかも知れない。しかし、こうした当たり前のことをキッチリと言語化してくれた選手、OBはほとんどいないのが実情だ。実際、昭和40年以降に発刊されたメジャーな野球本の中で、打撃練習の意義をド素人にもわかりやすく、ここまで詳らかにしているものは、落合博満の一連の著作以外に読んだことがない。ほとんどの本は「野球が上手くなるため」「もっと打つため」というレベルで説明を止めているか、小難しい理屈をひねり出しているものだ。

「問題を抱えていると、人間というものはどうしても、そのことばかり考えてしまう。他のことなど考えられないという心境に陥るのは、仕方のないことだと思う」
「しかし、そういう精神状態では見えるものも見えなくなってしまう。バットを振っているだけでは、バッティングは上達しない。それはバッティングが、バットを振るだけの行為ではないからだ」
「(中略)バッティングの練習だけをしていたら決して得られなかったものを、一見何の関係もなさそうな盗塁とセカンドというポジションから得ることができた」(87~88頁)

闇雲にバットを振るだけでは、バッティングは上達しない。何のために振るのかを意識しなければ猛練習も無意味なものになってしまうという真理と、こうした負のスパイラルから抜け出すための一つの方法を提示しているという点で、同書は現役のプロ野球選手が読んでも役に立つ本といえよう。

以上のように、どんなつまらないことでも自分なりに咀嚼し、自分の言葉で誰にでも理解できるように言語化する――という能力は、数多の選手、OBの中でも極々限られた人間にしか備わっていないものだ。ここまでに当blogで紹介したOBでは星野伸之。それ以外では落合博満、江川卓くらいしか思いつかないが、これだけ内容の濃い本を上梓できるだけの知性があるのであれば、指導者、解説者としても成功する可能性が高いのではないだろうか。

正直、井口選手には「入団契約時に小細工してメジャーに行き、通用しなくなったらサッサと出戻りしてきた狡っからい野郎」という最悪な印象を持っていたが、この印象は同書の読後に180度変わった。それくらい強烈な印象を残す本だけに、未読の方には第3章だけでも立ち読みで読んでみることをオススメしたい。

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