2010年7月4日日曜日

オグリ武 競馬ブームに オヤジギャル

つまり、手前にとってオグリキャップはバブルの象徴であり、日本が一番良かった頃の象徴であって、オグリキャップの死とは良き時代の思い出でありシンボルを永遠に喪ってしまったってことなのかも知れない――。昨日、悲報を聞いて思いのほか取り乱してしまった理由についてつらつら考えてみたことろ、どうやらこういった感情の動きがあったのかもなぁ……と自分なりに整理したところです。

もう二度と日本が世界一になることはない。株価が3万円を超えることも、エンパイアステートビルを日本人が買うことも、ベンチャーズ以外の外タレが日本の隅々までドサ回りすることも、週末深夜にタクシーが全然捕まらないことも、もう二度とない。こういうことがあるとしても、手前が生きているうちでないことは確かで、明日から政治がどんなに素晴らしい舵取りをしたとしても、良いとこフランスくらいにしかなれないという諦観。薄々気づいていたけど目を逸らしていた未来図を、否応なく目の前に突きつけるきっかけ。それが手前にとってはオグリキャップの死だったということです。

堀内恒夫が立候補したときに激しく落ち込んだときと同じような心の動きを、オグリキャップの死で再演したというか、手前の心の中にある“落胆スイッチ”がオグリキャップの死でポチッと押ささってしまったというか。

石原裕次郎が死んだときも、美空ひばりが死んだときも「昭和のスターがまた一人逝く」とかいわれて惜しまれていたけど、子どもだった手前にとっては、「デブで偉そうなオッサン」「歌の上手いオバサン」がいなくなっただけで何の感慨もわかなかった。でも、オグリキャップが死んで、初めて石原裕次郎や美空ひばりの死に悲しみ、大きな喪失感を覚えた当時の大人の気持ちが少しだけわかった気がする。きっと、あの当時の大人も彼らにとって一番良かった時代(=決して取り戻せない輝かしい過去)が永遠に来ないという事実を、その象徴の死で否応なく突きつけられたということなのだろう。

でも、彼らには高度経済成長が手の届かない過去のものになっても、バブルがあり、その後の老後の安泰があった。さて、手前の世代にはこの先何があるんだろうか?

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