2016年1月9日土曜日

SLGと「超訳 クラウゼヴィッツ『戦争論』」:その2

クラウゼヴィッツによれば、戦争をニュートン物理学のように綺麗に論証はできない。なぜなら、指導者や軍、銃後の無形の力を数値化することができないからだ。だからこそ、SLGで戦争を再現することは「不可能」なのである。

……というハナシが正しいとして、SLGで戦争を再現する努力は全くの無駄なのでしょうか?

そんなことはありません。いや、筋金入りの兵頭ファンであれば、「その通り!」と力強く宣言すべきなのでしょう。しかし手前は、良く訓練された兵頭ファンを自任する一方で、30年来のSLGファンですからね。「そんなこたぁない!」といいますよ。敢えてね(ってもう古いか)。

実際、いかに重要なファクターであるとはいえ、一部のファクターが再現できないからといって、全体を再現するのは無理! とばかりにゲーム化を諦めていたら、野球だって競馬だってゲーム化なんてできないですからね。それに、現実世界では無理でも、ごっこ遊びもいいからプロ野球の監督やダービー馬のオーナーになりたいという人は掃いて捨てるほどいます。で、ごっこ遊びでもいいから、カエサルとか織田信長みたいな英雄になりたいという人は、全てのスポーツの選手、監督になりたい人を合わせたより多いわけですから。そういった人々に向けて、ごっこ遊びのツールであるSLGを作るというのは、儲かるだけでなく、夢を売る有意義な仕事でもあると思うんですよ。

と、熱くSLGの必要性を語っているわけですが、一方で、現在上市されているSLGに満足しているわけでは全然ありません。というか不満ばっかりですよ。ええ。

パッと思いつくのは、『信長の野望』や『三国志』における「武将の能力値」。これほど納得のいかないものはないですからね。といっても、「石田三成の統率とか武力が低すぎる」とかいう、各武将の能力値の設定に合点がいかないといったハナシじゃないですよ。そんな程度の低いハナシではなくて、根本的なシステムのハナシです。

初代『三国志』では、全武将中最強の呂布が率いる兵力1の部隊が、最弱レベルの荀彧率いる兵力200の部隊に突撃したら、哀れ荀彧が負けてしまう(=200の兵力が0になるという形で負ける)ものでした。ここまで極端ではないにせよ、同じ兵力、同じ地形で部隊同士が戦えば、より武力なり統率なりの高い部隊が100%勝つのが、『信長の野望』や『三国志』の戦争です。ここでは両作品をあげつらっていますが、他のほとんどのSLGにしても同じことです。

でもこれっておかしくないですかね? 

呂布が戦いに得意で、荀彧が戦いを苦手にしていることはいいとしましょう。その得意のレベルを100段階で数値化するのもいいとしましょう。同じ兵力で戦った場合、「武力100の呂布が、武力20の荀彧をボコボコに打ち破るであろう」と予測できることもアリとしましょう。でも、いつ何時であっても部隊同士のぶつかり合いでは、呂布が荀彧を打ち破るというのはおかしいと思うのですよ。

だって、呂布にしても荀彧にしても、率いる兵隊の装備は大して変わらないわけです。で、呂布の率いる部隊とて、仮に完璧な両翼包囲をされてしまえば、カンネーの戦いにおけるローマ軍団のように負けてしまうことは必定のはずです。となれば、同兵力の部隊のぶつかり合いにおいて、武力100の率いる部隊は、常にどの部隊よりも強く、必ず勝てるという、能力値を基にした戦争システムは、やっぱりおかしいんですよ。

じゃぁ、どのようにして武将の能力を設定すれば良いのか? そのヒントになりそうなハナシを、以下、引用します。

――国家も軍隊も、分業で成り立っている。組織の分業がうまくいっているときは、大仕掛けの機会の隅々にまでよく潤滑油が回っているようなもの。その組織を動かす者には、特に天才など必要とはされまい。彼が指揮杖をひと振りすれば、半自動的に事は進むから。ところが、短期戦で勝つ見積もりが外れて長期戦になり、味方に敗け色が見え、誰もが疲れてくると、組織はさながら「潤滑油が切れて動かなくない機械」と化す。

~~中略~~

ナポレオンは、情況が不利になったときに、下級軍人たちの高次の名誉心を刺激して、高い文明を前提とする公的な栄光のために犠牲になろう、苦労しよう――と気力を奮い起こさせた。有能な将校たちには、フランス上流社会における「名将」の声望と社会的・経済的な地位向上を、戦場手柄によって求めるように促した。兵隊や下士官から将校に昇進する道は、フランス革命以来、常に開かれていた。

おかげで彼の機会は、ついど油切れになることはなかった。――(82~83頁)

このクラウゼヴィッツによるナポレオン評をベースに、戦いを得意とする武将の能力というものを考えてみるなら、以下のようになるのではないでしょうか。

例えば、「部隊の強さは<士気>の多寡で大きく左右される」「部隊は行軍や戦闘を続けると<士気>が激減する」といったシステムの下で、「戦いに得意な呂布が率いる部隊は、強行軍や連戦を続けても<士気>が下がりにくい」が、「荀彧が率いる部隊は、すぐに<士気>が下がる」といった感じなるでしょうか。

この場合、両部隊とも同じ地形、同じ<士気>でぶつかった場合は引き分けになります。しかし、3回、4回と戦い続けていくと、呂布の部隊に比べて荀彧の部隊の<士気>がダダ下がりとなり、荀彧が敗走することになるでしょう。一方、荀彧の部隊が、有利な地形から呂布の部隊を猛攻できた場合には、1回のぶつかりあいで荀彧が呂布を敗走させることもできるはずです。

このように単純な武力や統率といった数値の多寡ではなく、「部下を奮い立たせるスキル」、「強行軍をしても脱走兵が出ないスキル」といったシステムをベースに、ゲームがデザインされているのであれば、手前もここまで不満を抱くことはなかったと思います。

が、それでも部隊を縦横に動かして、ぶつけて、包囲したり奇襲したりするような「戦術級の戦争」(『大戦略』や『信長の野望』、『Total War』など)を再現するようなゲームであれば、やっぱりどこかしらに不満が残ってしまうわけで……。

(つづく)

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