2010年3月11日木曜日

私家版・兵頭二十八の読み方:その3

兵頭師が大胆に推測する根拠とは何か?

細かな例を挙げていくと――既刊本に書かれていることであったり、雑誌、オピニオン誌のコラムに書かれていることであったりと――キリがない。でも、推測の前提となるエッセンスというか、思考の大枠というか、そういったものはあるんじゃないか? と思うわけです。

じゃぁ、その「エッセンスというか思考の大枠というか」とは一体何なのか?

手前は、『ヤーボー丼』の9頁から始まる章『安全保障論議の諸前提を疑う』で一番易しく説明されているのではないか? と考えています。

*『ヤーボー丼』は、武道通信のサイト「兵頭二十八を読む」のコーナーでPDFファイル(¥1200)を配信。

この章の内容は、『日本の防衛力再考』の主張で読者に理解され難かったという「アメリカも仮想敵国にする理由」「安全保障が一国完結型でなければならない理由」「核武装を推奨する理由」の3つの主張について、サルでもわかるように噛み砕いて解説しているというもの。

で、この章の内容を極限にまで突き詰めると、中見出しに設定されている以下の文言に集約されるのではないかと思うわけです。

すなわち――

・民主主義は暴力だけが維持している
・いかなる国体も国内暴力のバランスの反映である
・自由即暴力

――ということ。

兵頭師の言葉を借りて説明するなら――

「友情とは、使おうと思えば使える暴力を、互いに抑制することから生まれる」
「ある国で民主主義を担保しているものがあるのなら、それはその国内の暴力の均衡にほかならない」
「自由の担保は、暴力に直面することのできる胆力と知力。相手が強いのを見て『こりゃ負けだ』と思っていたら、その人はすでに自由ではない」

――となります。このような暴力の均衡が個人間、国家間でも常に働いているということであり、「友情の基礎にも暴力の釣り合いってものがある」ってことです。

このことを頭に叩き込んで新刊を読んでみると、兵頭師の大胆な予測や、アクロバティックに見える論理の飛躍も、「つまり、彼らの自由、権力(兵頭師の定義によれば「飢餓と不慮死の可能性からの遠さ」)を維持、増進するために最善と思われる手を打つとしたら、こういうところで暴力のバランスをとる必要があるから、このような推測になるのだろうなぁ」と、たちどころに納得できるってことです。

読んでいて詰まったところ――「いくらなんでもこれは言いすぎ」とか「これはちょっよ牽強付会じゃないの」とか――があれば、↑のことを思い出しつつ読み返してみる。そのうえで、「こうした方が、より自由、権力の維持、増進ができるんじゃないか!」と思ったら、blogで発表したりファンサイトに書き込んでみたり、兵頭師の講演会で直接聞いてみるといい。もしかしたらそのアイディアで一冊本が書けるかもしれない。

「アンタの言う読み方でも全然理解できねぇよ!」

という方には、「そりゃ残念でした」というしかない。これは“私家版”と謳っているように、あくまでも手前にとって都合の良い読み方なんで……。もっと良い読み方があれば、是非、ご教授願います。

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