2010年3月3日水曜日

『街場の中国論』に一言以上いいたい:その2

昨日のあらすじ――『街場の中国論』という本で、儒教圏成立の可能性と期待について滔々と語っているんだけど――。

おい、いつから日本は儒教国家になったんだよ! 日本って国は――

・葬式仏教=葬式は線香とお経がデフォでしょ? コンビニで香典袋を売ってるくらいだし。
・なんちゃって儒教=幼長の序は体育会系という形で尊重しますが、親は金属バットで殺します。
・ちょっとだけキリスト教=結婚式、クリスマスはキリスト教だけどハロウィンはしません。あと、ガンガン自殺します
・太陽神信仰=天皇を中心とした神の国です。人間宣言? そんなもの飾りです。偉い人には(ry

――を混交したハイブリッド宗教国家じゃなかったっけ? 

いや、この認識が正しいとはいわないけど、手前の受けた教育が大幅に間違っていなければ、少なくともゴリゴリの儒教国家ではない(てか、儒教をスッパリ捨てた)から文明開化ができたってことだと思うんだけど。

そんな「なんちゃって儒教」を少しだけ含む日本が、千年以上続くバリバリの儒教国家と一緒になれるわけないじゃん! 価値観だって全然違うんだし。だいたい儒教では、「京都で十代続く和菓子屋」とか「蒲田の町工場」みたいな存在は卑しいものなんだから。こういった存在を卑しむどころか世界一ありがたがる日本とは、水と油じゃないか!

でも、『街場の中国論』によると、日本は本質的に儒教国であるらしい。

「華夷秩序の周縁国という立ち位置は日本人にとってはもう国民的エートスになっている僕は思っています。つまりオリジナルを作り出すのではなく『付加価値をつける』商売ですね。昔は加工貿易と言いましたけれど、誰かが出したアイディアを洗練させてゆく、ある種の『二次加工能力』を誇る文化です。仏教も儒教もそうだったし、文字もそうですね」
→これは同意。言い方は違えど多くの人が主張していることでもある。

「でも、驚くべきことは、この『私はオリジナルではありません』という立ち位置自体が儒教の教えなんですね。日本の文化的構えの原点がすでに日本オリジナルではないというところがすごい。徹底してる」
→これも同意……かな? ただ、大幅に間違ってはいないと思う。

「孔子の政治哲学はすべて『これは私のオリジナルではなく、いにしえの聖賢の教えである』というかたちで述べられている。私は『創始者ではなく、祖述者にすぎない』というのが、『述べて作らず』ということです」
→まぁ同意しましょう。

「日本はまさにそういう点では国全体として『述べて作らず』を実践してきたし、それをよく血肉化している。その点で、やはり日本は本質的に儒教国だと僕は思います」
→えええええぇ!?

日本に儒教が渡来したのは5世紀半ば。その前に中央政権(ヤマト政権)があったのは確実視されている。卑弥呼だって3世紀の人物だし。

となると、日本が『述べて作らず』を実践したのは、「儒教を受入れ、その思想の要諦である『述べて作らず』を実践した」のではなく、「華夷秩序の周縁国という立ち位置から、期せずしてその教えである『述べて作らず』を実践していた」ということになる。

でもねぇ、そんなことをいったら敬虔な仏教国であるタイ、ベトナムも本質的な儒教国ってことになりますがな! 実際には全然違うのに。もしかして漢字を使ってたら儒教国家ってことになるの? だったらアラビア数字やローマ字使ってたらどんな宗教国家になるのかねぇ。この辺の議論はちょっと牽強付会じゃないかなぁ。

てか、中国、朝鮮、日本で儒教圏を成立させたとして、日本に何のメリットがあるんだろう。『街場の中国論』では、「東アジア全体としての安定秩序の確保」を挙げている。これはこれでとても大事なことだけど、とっても消極的な理由でしょう。

もしかしてメリットってそれだけ?

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