2010年5月25日火曜日

明治維新かと思ったら建武の新政だったでござるの巻

このあいだ知り合いと話していて、「小沢一郎は、去年の総選挙を戊辰戦争に位置づけている」なんて話題になり、「いや、元弘の変でしょ。どう考えたって」と答えたわけですが……。いま、建武の新政でググってみると、「建武の新政 民主党」が推薦ワードになっているんですねぇ。やっぱり考えることはみんな同じってことか。

blogでもこのテーマを書いている人が結構いるようで、なかには面白いエントリも数多くあります。いくつかのblogをザッと眺めてみたなかでは、松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOGというblogの民主党政権の誕生は<明治維新>か<建武新政>かというエントリが良い感じでした。ちょっとわかりにくかったけど、その主張には大体同意ですよ。

ただ、この「民主党政権=建武の新政」説を手前の視点で見たときに、一番問題と感じるのは、「足利尊氏がいない」ことなんですよ。

09年政権交代の配役を鎌倉幕府末期に素直になぞらえてみると――

・鎌倉幕府=自民党
・朝廷=民主党
・後醍醐天皇=鳩山由紀夫or小沢一郎

――となるんでしょう。でも、肝心の「足利尊氏=自民党からの離反者」がいないわけです。

で、思い返してみたんですが、本当の意味での建武の新政(元弘の変)は、17年前にあったんじゃないでしょうかね? つまり、小沢一郎が自民党を割って、非自民連立政権をとったときこそが、建武の新政(元弘の変)だったってことです。

そう考えると、このハナシは物凄くわかりやすくなります。つまり――

・鎌倉幕府=自民党
・北条得宗家=経世会(旧田中派)
・安達泰盛らの有力御家人=清和会(旧福田派)
・足利尊氏=小沢一郎
・後醍醐天皇=細川護煕

――ってことです。こう見立ててみると、こんなストーリーになります。

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鎌倉幕府を実質的に支配していた北条得宗家。彼らに不満を持つ安達泰盛らの有力御家人衆は、霜月騒動などにより排斥された。結果、北条得宗家支配は磐石なものとった。我が世の春を謳歌する北条得宗家。しかし、体制内にいながら不満を持つ足利尊氏は、後醍醐天皇を奉じて反旗を翻す。


自民党を実質的に支配していた経世会(田中派)。彼らに不満を持つ清和会(旧福田派)は、角福戦争、四十日抗争などにより排斥された。結果、経世会(旧田中派)支配は磐石なものとった。我が世の春を謳歌する経世会(旧田中派)。しかし、体制内にいながら不満を持つ小沢一郎は、細川護煕を奉じて反旗を翻す。

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結構、いい具合に当てはまってるんじゃないでしょうか。
ただ、その後の展開までを鎌倉末期になぞらえるのは、ちょっと無理がありそうだけど。

建武の新政(非自民連立政権)はすぐに瓦解したものの、尊氏は下野して1年後、湊川の戦いで勝って復活します。一方、小沢一郎は下野して15年近く雌伏(途中、自自公連立があったけど)した後、昨年の総選挙で勝ち復活しました。1年と15年では大違いだけど、あえて昨年の総選挙を湊川の戦いに位置づけると、その後の展開はどうなっていくのか?

鎌倉末期の歴史では、尊氏は弟の直義に裏切られて一度敗北(観応の擾乱)することになっています。となると、民主党の反小沢勢力が小沢を裏切って内閣不信任決議案に賛成するという流れになるんですがね。

まぁ、その後、尊氏は復活するわけで……。それにしても天下に太平をもたらす足利義満はいつ現れるんだろうなぁ。って本当に義満みたいなキャラクターが現れたら、女系天皇を認めるどころか自ら成り代わりかねないわけで、それはそれで問題かぁ。



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