「プロの投手の魅力とは一体何でしょうか。やはり、真っ向から打者にストレートで勝負にいって三振を奪う、あるいはホームランされる、そういうだいご味ではないでしょうか」(14頁)
「いくらフォアボールを出しても、三振取って〇点におさえりゃ文句ないだろ、というのがピッチャーとしてのボクの信条ですから」(15頁)
「とにかく、自分のボールはバットにかすらせたくない。そのためにバッターと真剣勝負をしているのであって、ストライクが入らなかったくらいで自分の気持ちを偽りたくない。そういう考え方なのです」(16頁)
この14~16頁にかけての文章。ここに川口という投手の本質が全て言い表されている。並み居る強打者を牛耳るために投げる。究極的には審判、キャッチャー、試合すら二の次。野球選手である前に“戦士”に近い意識で試合に臨んでいたのだろう。四球を出しても意に介さず、マイペースで三振を取り捲る――監督にとっては一番使いづらい投手であると同時に、誰よりも頼りになる存在でもあったはずだ。もちろん無責任な観客、ファンにとっては一流のエンターテイナーだ。
そんな川口は、投手のタイプを<タテの投手>と<ヨコの投手>という2つのタイプに分けて考えていた。
「タテというのはボールを高目、低目に投げ分けて、タテに曲がる変化球を武器にする投手。ヨコというのは、スライダー、シュートなどヨコに曲がる変化球を武器にして、打者の内・外角を攻める投手です」(12頁)
<タテの投手>は自分自身、<ヨコの投手>には先輩だった北別府学を典型例にあげている。そのうえでタテの投手には、威力抜群の高目のストレートと同じ高さから落ちるカーブ、ヨコの投手には左右の変化球(スライダー、シュート)に加え、自由自在にベースを掠められる抜群のコントロールが必要と説いている。
こうした<タテの投手>は、今中慎二の引退以降ほぼ絶滅種に近い存在となっているが、その理由について、川口はこのように分析している。
「近年、日本の野球のストライクゾーンはかなり低くなっています。八〇年代や九〇年代初頭とくらべるとボール一つか二つ分低くなっています。これはどういうことかというと、高目のストレートで勝負するピッチャーが不利になったということです」
「かつては、キャッチャーの顔くらいの高目はみんなストライクでした。いまはボールにとられるケースもあるでしょう」
「高低差が使いにくい分、低目の変化に活路を見出すことになるのです。ですから、近年活躍している日本の投手は、スライダーと低目に落ちるフォークを武器にする人が圧倒的に多いでしょう。これは当然といえば当然の帰結です」(14頁)
こうしてスライダーピッチャー(打たせて取るタイプ)とフォークボーラー(一か八かで三振を取るタイプ)だけが生き残った結果、投手と打者の勝負の醍醐味が少なからず削がれてしまっているように感じるのは手前だけだろうか?
もっともこういった思いが郷愁であることは十分承知しているつもりだ。サッカーに例えれば、「一対一の勝負から組織的な多対一の勝負になってしまい、ファンタジスタの生きる道がなくなった」というような言説と同じ類のものといえる。川口のような古典的本格派が消えつつあるのも、野球が競技として進歩した結果なのだと受け止めなければならないということなのだろう。
(つづく)
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