野球部における殴る蹴るシゴキがやっかいなのは、これをしないチームとの「対照的な成績の比較」が難しいことにある。同じ環境、同じ才能を揃えることが不可能であり、指導方針の変更が成績低下(監督解任、部員の進路変更など)を招くリスクを内包していることから、どうやっても対照的な比較ができないということだ。
結果、経験的には殴る蹴るシゴキをしたチームが勝ち続けていることをもって、「殴る蹴るシゴキは有効」と正当化されてしまう。暴力というファクターが、「勝ち続けるだけの豊かな才能を揃えていた」「暴力とは無関係に膨大な練習量をこなした」というファクター以上に重視されるといっていい。
しかし、殴る蹴るシゴキをしないチームとの対照的な成績の比較という、“科学的な検証”をしていないということは、同じレベルのチームを3年間率いて<非暴力のシゴキ>をすれば、より高い成績を残す可能性もあるといえる。これを“科学的に否定”できないからこそ、ド素人の手前でも偉そうな口をきける(=仮説を立てることができる)のだ。
PL学園野球部のOBで、ただ一人、暴力に否定的な意見を持つのは桑田真澄だ。
「入学後に一番驚いたのは寮生活だったな。上下関係、いろいろな決まりごと、すべてが驚きだった。食事していても食堂に皿が飛び交っていたからな。一年生は先輩たちにこっちで怒られ、あっちで怒られて、しっちゃかめっちゃか。先輩に『チャーハン作れ』って言われて、チャーハン作ってても皿がバンバン飛んでくるような状態。だから、一年生の寮生活は、もう二度と送れない。お金をいくらもらっても無理だね」
「でも、上下関係はすごく大切だし、精神野球は絶対に大事なものと思っているんだよ。絶対服従や暴力はあってはいけないから、そこが違う点ではあるけどね」
「上下関係や礼儀を教えるにしても方法はいくらでもある。PLの寮生活では説教が当たり前だったけど、それは僕の理論とは反するやり方だった。その経験があるからこそ、僕が三年生になってからは変えたよね。少なくとも、僕の目の前で一切なかったね。僕のいないところでやっていたかもしれないけど、少なくとも僕の目の前では誰一人やらなかった」
「厳しいというのはすばらしいことだと思っている。厳しさがなければダメ。ただ、厳しさの質が問われると思う。どんなときでも暴力はダメなことだけど、たとえ殴ってしまったとしても、殴られた側が『ありがたい』と思えるくらい、質の高い指導ができるかどうかが大事なんだよね」(17~18頁)
桑田のように考えられるOBが少数派どころか異端――少なくとも手前の知る限りでは、桑田と落合博満しかいない――であることは、野球界(というか体育会系部活全体)の悲劇ではないか? このあいだ読んだ高校時代の江川卓を描いたノンフィクション『真実の一球――怪物・江川はなぜ史上最高と呼ばれるのか――』(松井優史著。竹書房)で、著者は、江川が作新学院野球部に馴染めなかった原因について、このように書いていた。
「私はこう思った。江川と作新ナインは試合以外での共有する思いが足りなかったのでは。“集合”もそのひとつである。名門校になればなるほど同窓会で盛り上がる話題は、甲子園で勝った云々よりも誰々がヘマして殴られた“集合”話である」
「1年のときから江川が“集合”に参加しているのをほとんど見たことがない」
「“集合”を受ければいいというわけではないが、一緒にヤラれた苦痛から、仲間としての団結心がどこかに生まれてくる。『おまえはこんな苦しみ味わってないだろう!』『なんで俺たちだけが!』共有できる感情があまりにも江川とほかのナインのあいだで少なすぎたのではないか」(235~236頁)
このような素朴な暴力の肯定論を、それなりに名前の知られているライターが公刊されている本で堂々と述べているのだ。暴力そのものを肯定しているわけでないのであれば、「同調圧力に身を任せなければ仲間として認められない、日本の体育会系部活の閉鎖性」を礼賛しているということなのだろう。いずれにしても褒められた話ではないと思うのだが……。
野球部が暴力で強くなったのは過去の話――と、堂々と言えるようになるまでには、まだまだ時間がかかるというのだろうか?
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