2011年6月18日土曜日

*読書メモ:源氏と日本国王

「終章:王氏日本と源氏日本」より

・1592年5月、秀吉は関白秀次に二十五箇条の「事書」を与えた。そのなかで秀吉は、明国征服後は、後陽成天皇を北京に遷し、日本の天皇は良仁親王か智仁親王に継がせるよう指示している。秀吉自らは寧波に居を構え、インドを含めた全世界を支配するつもりだった。

・秀吉は、「天皇を国替えできる立場」にあったということ。北京と京都の天皇は、秀吉に封ぜられた国王で、秀吉は彼らを支配する「中華皇帝」になろうとしたのではないか? 秀吉の肖像画や彫刻に唐冠がかぶせられているのは、これを意図したものだろう。

・秀吉は「中華皇帝」になれたのか? 可能性は十分あった。実際、20年後に女真族のヌルハチが金を建て、その息子ホンタイジは「中華皇帝」になった。唐入りが成功し、後継者が健在なら、豊臣姓の「中華皇帝」が誕生していただろう。

・その場合、豊臣氏の帝国は「日本」であろうはずがない。ホンタイジが国号を金から清に改めたように、秀吉も「日本」という国号を自らの帝国に相応しいものに変えたはずだ(*都築注――井沢元彦氏も同じような説を立て、新たな国号は「大」になった可能性があると指摘している)。天皇も中華皇帝によって転封、改易されただろう。

・つまり、信長や秀吉は平氏だから「将軍になれなかった」のではなく、そもそも「将軍になろうとしなかった」のだ。彼らの国家構想は、日本という7世紀末以来、天皇の支配する国として定められた版図を大きく超え、最終的には「中華皇帝」を目指すものだった(*都築注――信長が本能寺で横死していなければ、多分、もっと早く唐入りが行われたのだろう。秀吉の支配に比べて国内統治に無駄がなく、優秀な後継者もいたので、唐入りが成功していた可能性は相当高かったのかもしれない)。

・足利義満は、天皇になろうとしたわけではない。「治天の君」になろうとしたのだ。「治天の君」は院宮家(天皇家)の家長というべき存在であり、皇統の家長にあたる上皇が就いてきた。義満は人臣として初めて「治天の君」となった。それを示す地位(=臣籍にある「治天の君」の地位)が、武家政権にとっての「源氏長者」であろう。

・もともと源氏とは、「たまたま臣籍に身を置く皇族」だった。実際、親王に復して皇位についたケースもあった。「源氏長者」とは、臣籍に下った「王氏」(=皇族賜姓氏族全体)の家長であり、「治天の君」とは、臣籍に下らなかった「王氏」(=院宮家)の家長だった。義満は、「源氏長者」の地位を、院宮家をも含めた「王氏」全体の長者とすることで、これを「治天の君」に代わるものにしようと考えていたのかも知れない。

・義満以降の「源氏長者」は、事実上の「日本国王」として徳川慶喜に至るまで伝えられた。義満の“王権”簒奪計画は、白河院以来「治天の君」に掌握されてきた日本の国家主権を、「源氏長者」という地位にあって見事に簒奪し、これを徳川政権にまで継承することに成功したものとして評価し直せるのではないか?

・婿取りや養子縁組によって継承されることに抵抗のない「家の論理」になじんだ武家社会では、比較的早くから「南朝正統論」が論じられていた。一方、父子一系の「氏の論理」になじんだ公家社会では、幕末に至るまで決して受け入れられなかった。事実、孝明天皇は神武天皇の122代孫と称していたが、これは北朝を正統とした代数。

・つまり、近世以降の尊王論者が陥りがちな「南朝正統論」には、皇統と王氏の中で相対化してしまうという罠があった。逆に、義満に皇位簒奪を断念させ、万世一系を守った思想は「北朝正統論」だった。

・攘夷を本業とするはずの征夷大将軍にその能力がなかったことが、攘夷運動が倒幕運動に結びつくことになったが、その帰結は、攘夷という国家の急務を実現する征夷大将軍の職務を明治天皇に負わせることになった。すなわち「帝国陸海軍の大元帥」という立場は、征夷大将軍の地位を継承したものにほかならない。もっとも、他の親王なり島津久光なりを征夷大将軍に任じていたら、近代化は10年遅れていただろうが。

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