『別冊正論Extra16~~わが子に語りたい知られざる日本人の物語』に、兵頭二十八師が寄稿しています。
★タイトル:組織を恃みとせず! 「個人」の気概を貫いた岡谷繁実
◆リード:その前半生はドタバタ喜劇…救いは昔の武将を規範と仰ぎ、個人の徳を流し去る「組合根性」を蝉脱していたことにある。孤塁を守る個人の気概なくして、どうして公共はよく保たれよう。
内容は『名将言行録』の著者である岡谷繁実の伝記といったところ。『名将言行録』は有名でも、その著者については、巷間では全く知られていないといっていいほどマイナーといっていいでしょう。そんな岡谷繁実のまとまった人生について、軍師ならではの実も蓋もない幕末日本の歴史解釈付きで知ることができるという、非常にお得な内容です。
この記事一本のために1000円を払えるか? というと、兵頭ファンである手前には――たまたま大きめの仕事を終えて、いつもより多めギャラをいただいた結果、懐がほんのり暖かいという事情もあって――全然余裕ですが、一見さんには力強くオススメできないかも。まぁ、本自体が、いつもの『正論』のように「十年一昔の主張しかしない古臭い保守論壇の陳列棚」みたいなものではないので、歴史モノが好きな人にとっては軍師の記事以外にも読める記事があるかも知れません(まだ読んでないけど、佐藤健志氏のジョージ・タケイのハナシは面白そうだ)。
ただ、この記事の眼目は岡谷の伝記にあるのではなくて、岡谷の人生を通して何を伝えたいかにあるわけで――
戦後、江戸時代式の「組合根性」は、いつのまにかありとあらゆる職域に復活して、日本人から個人の徳を流し去ってしまった。組合のないはずの高級公務員の世界にすらその根性は瀰漫し、今日の彼らは昔日の「家老」に類似している。「組合根性」を持てない個人は、無力になり、貧乏になる世の中だ。しかし、孤塁を守る個人の気概がどこにもなくて、どうして公共はよく保たれよう?(136頁)
――という、“現代のムラ根性”に対する強烈な危機意識を喚起する内容になっています。
当blog的にはここ数年で最も大きなニュースである「落合退任」のハナシなどは、まさにこのテーマにピッタリのことだったりするので、↑の部分については、流し読みできなかったですね。
実際、日本プロ野球は、日本のあらゆる業界で最も実力主義が貫徹されている世界なわけですよ。確かにコネやエコヒイキはありますが、それでも3割30本打てればどんなにイヤな奴でもレギュラーになれる。張本勲曰く、「バットマンは数字で人格が決まる」(ホント、素晴らしい言葉だと思います)世界であって、あらゆる行動が数字で測られ、常に優劣を比べられるわけですから。で、そんな世界を誰も恃まずに30年以上渡り歩いてきた落合博満ほど「組合根性」から縁遠い人間はいないわけで……。しかも、岡谷のようにドタバタ喜劇を演じたわけではなく、現役~監督を通して全ての人間を黙らせるだけの圧倒的な結果を出してきたにも関わらず、石もて追われる日本社会ってのは一体何なんだ?
とまぁ、実人生を重ねての愚痴に発展してしまいそうなので、ここらで打ち止めにしておきますが。
ともあれ、これを読めば、『新訳名将言行録』で、「なぜ、あのエピソードを省いて、このエピソードを紹介したのか?」「どうして、コイツが大々的に紹介されているのか?」といった謎が一発で氷解するはずなので、本棚でホコリを被っている『新訳名将言行録』をより面白く再読してみたい方にとっても、今回の記事は必読モノといえましょう。
長い追記:単なる屁理屈だと十二分に自覚したうえで敢えていいますが
・■カダフィの拳銃が古いハイパワー(9mm)だったのを見て、あそこは欧州のナワバリだと認識。『Gun』誌のネタだったのにね…【2011-10-22作文】
↑記事の五について。
>John Brandon 記者による2011-10-?記事「Ghost Recon: Future Soldier――the Real Military Tech Behind the Game」。
トム・クランシーが『ゴースト・レコン』という軍事SF小説をシリーズで書いていて、それに基づくFPSゲーム(first-person shooter video game)ができた。
※ここを読んでいる少年諸君らに告ぐ。悪いことは言わんからゲームはやめろ。あと、アニメも卒業しろ。他人のつくった世界の中で遊んでいたら、奴隷と同じやぞ。一生、成長できんぞ。クリエイターになれ。つくる側になれ。オレはこの歳になって、江藤淳が漫画を評価しなかった理由が呑み込めた。テキストは無制限のリアリティを最初から運搬できる。
*都築注~FPSとしての『ゴーストリコン』自体は、10年くらい前から続いている老舗シリーズです。
だったら映画(実写)だってダメじゃね? てか、そもそも他人のテキストを読むこと自体、「他人のつくった世界の中で遊ぶ」ことになるんじゃないの? アニメやゲームは、テキストや実写では表現しきれないモノを表現するための<ツール>でしかないわけで、それ自体が悪いものだとは思わないけどなぁ。
――という、手前のようなうすらバカでも0.5秒くらいで思いつくような地平をとっくに越えたところで言っているハナシだとは思うんですが、手前みたいに頭の血の巡りが悪い人間には、いまいち言葉足らずに感じるのが正直なところ。
恥を晒しますが――
・パワーバランスが崩れると戦争になる
・隙を見せると攻められる
・八方美人の外交は長続きしない
・裏切るときは相手を殺す決意で裏切るのが肝要
・軍隊におけるスピードは、その数や精強さに勝る
――といった真理は、『孫子』やらその他諸々の本を読んで「アタマでは理解」していましたが、これを「ココロから理解」したのは『Civilization』をやり込んで数多の文明を滅亡させた後のことですからね。つまり、手前にとっては、理解し難いテキストをココロから理解するための“よすが”として役に立ったってことですよ。
もちろん、『Civilization』はシド・メイヤーなり彼に続くディレクターなりの世界観、文明観が色濃く反映された箱庭であって、彼らの手に踊らされていることは間違いないわけです。が、それを言ったら『新平家物語』だって『ホーンブロワーシリーズ』だって、吉川英司やセシル・スコット・フォレスターの世界観、文明観が色濃く反映された箱庭でしかないですからね。単に表現するツールが違うってだけだもの。テキストだから違う! ってこたぁないと思うけどなぁ。
ただ、「クリエイターになれ。つくる側になれ」という意見には全面的に同意ですよ。つくる側になれ、といったところで、別に人に見せたり金取ったりする必要もないわけだから。いまからワードパットに思いついたことを書けば、それで作品なんて一丁上がりなんだし。
0 件のコメント:
コメントを投稿