2011年1月4日火曜日

トスカナ通信(EU3HttT日記):その5

お金が欲しい。現実でもゲームでも、足りないのはお金。お金が一番。お金があれば何でも出来る――書いていて虚しくなってきたけど、お金がないことにはどうにもならない。お金がないのは首がないのと一緒や(西原理恵子©)ということで、とにかく蓄財に励む。砦やキャラック、騎兵連隊、寺院、郵便局、オーストリアの歓心……欲しいモノは一杯あるけど、とにかく近隣全てのCOTに商人を派遣し、交易規模を維持・拡大しなければ。

と、蓄財を始めて3年。その間、任期満了の元首選挙があったものの再選したりして、あまり波風の立たなかったトスカナは、突然、ナポリからの挑戦を受ける。1465年1月、ナポリが同盟国・ウルビーノに宣戦してきたのだ。

ナポリ一国であればサシで十分戦えるはずなので、ウルビーノからの援軍要請を快諾。すぐに陸軍維持費を目一杯に上げ、アンコーナに駐留する。河川と山のあるアンコーナで迎え撃てば、相手の将軍が有能だろうと1~2連隊くらい大目の編成だろうと、十分撃退できるはず。

アンコーナの戦いは、トスカナ(騎兵連隊×4、歩兵連隊×1)VSナポリ(騎兵連隊×2、歩兵連隊×5)の戦いとなったが、トスカナの死傷者357人に対して、ナポリは死傷者1942人を出す大敗。会戦の経過を見る限り、河川、森林の地形効果が大きくモノをいっていたようだ。その後、アプルッツィに進軍、砦を包囲している間に2度戦ったが、いずれも我が方の勝利だった。

しかし、敵地で戦力補充できないトスカナと、本土で軍団を再編し直して攻めかかってくるナポリの戦いは、長期戦になればなるほど敵方が有利になるので、開戦から半年経ったところで痛み分けの和平を提案、双方同意する。結局、3度の会戦に勝ち、威信と陸軍の戦訓を得たことだけが収穫か。ちなみにこの間、なぜか教皇領がイングランドとの戦争に巻き込まれ、教皇領の海軍戦力が全滅。「教皇領との建艦競争に勝利せよ」のミッションを期せずして達成した。次なるミッションは「ヴェネツィアとの建艦競争に勝利せよ」……無理無理、100%無理。キャラック×16、コグ×2の大艦隊を超えるためには、イタリア半島を統一しなきゃ無理です。ナポリとの戦争が一段落し、向こう5年間、ナポリを相手にすることがなくなったので、北のマントヴァの独立保障を宣言する。

1465年12月にはコンスタンティノ・ポンコンパーニの逝去に伴う元首選挙を実施。官僚系候補のコジモ・ランツィ(行政6、外交3、軍事3)を選出。そのコジモも1467年に逝去し、今度も官僚系候補のジュリアーノ・ダスブルゴ(行政7、外交3、軍事4)を選出した。ちなみにコジモ・ランツィは歴史書によれば、「ただ彼がいばり散らすだけであったとみなされてます」と評されているらしい。その年の10月には国家スライダーを動かせるようになったので、自由貿易に一つ振ることにする。

またまた蓄財に励み続けて2年余。1469年には統治レベルが11を突破、3つめの国策を選べるようになる。ここで選択すべきは「冒険的商業主義」(商人派遣費用-33%)か? それとも「統一的交易方針」(交易効率+10%)か? 頻繁に商人を派遣するわが国にとって、派遣費用が3割引になる「冒険的商業主義」は喉から手が出るほど欲しい国策だ。しかし、長期的には交易額が増えれば増えるほど見返りの大きい「統一的交易方針」の方が明らかに得といえる。順調にゲームを進めていけば、1世紀も経てば商人派遣費用を無視できるほど経済規模が大きくなっているからだ。

モニタの前で散々迷った末、結局、「統一的交易方針」を選択することにする。これにより解禁された「商取引所の設立」を認可する。一連の政策により年頭収入は33Dから40D前後にまで拡大した。

こうして蓄財&経済規模の拡大により陸軍を扶養限界まで整備することを決心。2つの歩兵連隊を作り、近衛師団(騎兵連隊×4、歩兵連隊×4)、コンゴ師団(歩兵連隊×4)に再編成する。このくらいの規模の陸軍であれば、ちょっとした反乱であれば十分鎮圧できるはず。

1470年、サンドロ・ボティッチェリが登場。死んだドナテルロの代わりに安定度を上げてもらいたい――多分、「ヴィーナスの誕生」とかを描いて民心を安定させるのだろう――のでサクッと宮廷顧問に招聘。こういうときに何も考えず出費できるほど経済規模が大きくなったのだなぁ……と感慨に耽っていたらヴェネツィアがマントヴァに宣戦布告キター! ナポリの戦争後にマントヴァに布石を打っておいたのがここで効くとは。マントヴァからの援軍要請に応えた後、戦争の状況を見てみたら、「トスカナ、サボイ、ナポリ、ミラノ、ジェノバ、オーストリア、マントヴァVSヴェネツィア」という凄い状況に。

緒戦からフリウリ、トレビゾンドをオーストリアに獲られたヴェネツィアは、果敢にこれを取り戻そうとするもオーストリア、ミラノの連合軍に蹂躙され壊滅。その隙に我が軍はフェラーラに進軍。ナポリの援軍が到着したところで力攻めに転じ、1471年1月に攻略。

この時点でヴェネツィアは首都まで落とされており、どんな和平条件でも飲まざるを得ないだろうと判断。以下の和平案を提示する。

・フェラーラの割譲
・ダルマチア、ラリッサ、クレタの領有権放棄
・シエナとの条約破棄
・モデナの独立
・賠償金125Dの支払い

ヴェネツィアにしてみれば、ほとんどのプロヴィンスを占領されたにも関わらず、この程度の条件で和平が結べてラッキー! というところなのだろう。和平案は快諾され、結局、ヴェネツィアは北イタリアの勢力を減じることなく面目を保ち、オーストリアは骨折り損となり、トスカナは中核プロヴィンスの北方に緩衝地帯を得るとともに、3年分の予算に匹敵する賠償金を得る――という会心の結果を得ることができた。

……それにしても本気のオーストリアは怖いなぁ。

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