2011年8月31日水曜日

『ゲーテの警告』、手前はこう読んだ!:世の中を正す方法はあるのか?

『B層』のハナシを書いていて思い出したことがあります。ちょっと前にがん治療の現状について調べていたんですが、その際、患者に対して“機械的にがんを告知”する医師が激増しているというハナシを聞きました。診察した全ての患者に対して、諸々の事情を一切考慮せずに、「あなたは胃がんです。この状態であれば余命6カ月から1年ですね」みたいなことを平気でいうそうです。

医師サイドの言い分は、「どんな気遣いをしたところでクレームをつけられるので、それであれば最初から診断結果を明らかにしておけば間違いないから」というもの。一部の患者(=見境なく文句をつけるバカ)の対応に苦慮した結果、仕方なく“機械的にがんの告知”をしているといいます。『B層』の拡大が医療の質を落としている好例でしょう。

このように腐った世の中を正すには、どうすればいいのか?

手前の理解では、「まずは自分の趣味の“基礎教養”を蔑ろにしないことから始めること。そのうえで『B層』から脱出する努力を惜しまないこと」が一つの回答になるというものです。

そもそも趣味に関する“基礎教養”を知り、追求していくことは努力や苦難を必要とするものではありません。少なくとも手前にとっては、楽しいことであり面白いことです。それはどういうことなのか? そうですね……ちょっと恥ずかしいハナシになりますが、HR/HMの実体験について書いてみましょうか。

元々、五月蝿いジャンルとして敬遠していたHR/HMにハマったのは、ディープ・パープルがキッカケなんですが、これを聴いて思ったのは、「これと同じように“凄い音楽”は他にないのかナ?」「こんなに“素晴らしい音楽”のルーツはどこにあるんだろう」です。ようするに、ただでさえ素晴らしいディープ・パープルを、もっとブリリアントに聴き、もっと楽しむためにはどうすればいいか? ということを考えたわけです。

で、専門誌を読んだり、同好の友人と情報交換したり、レコードショップに通いつめた結果、「ルーツはジミ・ヘンドリックスにあるんだよ」「パープルが好きならツェッペリンも聴いてみたら」「パープル解散後のレインボーも凄いよ」「NWOBHMの一連のバンドも外せないね」「LAメタルだってバカにできないよ」――みたいな感じで知見を拡げていったわけです。この延長で、ブルースやジャズ、ファンク、クラシックなども一通り耳にした結果、「HR/HMは必ずしも“凄い音楽”ではない」「HR/HM以上に“素晴らしい音楽”は掃いて捨てるほどある」ということを理解することができました。

つまり、もっと楽しみたい、もっと凄いものを体験したいという快楽を追求したら、結果的に“基礎教養”を身につけることになったというだけのことです。恐らく適菜先生も、根っこのところでは手前と同じような動機で、様々なジャンルの“基礎教養”を身につけ、自分なりの価値観を醸成していったのだろうと勝手に確信しています。

その意味では、手前の考える『B層』脱却のメソッドであり、亡国の途を避ける答えでもある「自分の趣味の“基礎教養”の追求」は、ある意味、『B層』の行動原理である「自分の気持ち至上主義」(岡田斗司夫©)と同質のものであって、その点では誰でも実践できるハードルの低い手段ではないか? と思っています。しかも、最近はネットに繋げば事実上タダでありとあらゆる情報や過去の資産をいくらでも手に入れられますからね(例えば1930年代のソウルやブルースなどもYouTubeで簡単に視聴できます。10年前には考えられないことでした)。

といっても、実際のところ『B層』に甘んじている人は、「別にこれはこれで面白いんだからいいじゃん」「これで満足してるから十分だよ」「てか、一々古いモノとかに当たるのってメンドクサイし」――という具合に“基礎教養”を省みることはないのでしょう。言うだけ無駄ってやつです。

それでもなお、「与えられたモノだけで喜ぶのもイイけど。ちょっと手間をかけたらもっと面白いよ」「“基礎教養”を蔑ろにしなければ、もっと幸せになれるかもよ」といい続けるとともに、自らも“基礎教養”を疎かにしない姿勢を保つことだけが、いまの腐った世の中を正すただ一つの手段なのではないか? と考えています。

最後に、手前が定義づけするのを逃げた“基礎教養”の本質(=要するに何を観て、何を聴き、何を知ればいいのか?)について、適菜先生は『ゲーテの警告』で、ゲーテの言葉を借りながらこれ以上ないほどシンプルで的確な答えを導いています。詳しくは同書を読んでください。

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