2011年2月14日月曜日

「大日本国防史」を軍事解説書として読む

兵頭二十八師の新刊『大日本国防史』の感想ですが、再度通読したもののなかなか上手くまとまりません。もちろん「何か書け!」と言われれば、それなりのことは書けるんですが、いくら何を書いても良いblogとはいえ、とってつけたようなことを書いてもしょうがないですからね。加えて再度通読して思ったのは、「元になった『二千五百年史』を読まないことにはどうにもならないのでは?」ということ。つまるところ映画『2001年宇宙の旅』を語るときに、原作小説を読まないことにはハナシにならないことと同じことですよ。

というわけで、昨日、図書館から『二千五百年史』を借りてザザッとナナメ読みしているところです。これを片付けた後、改めて『大日本国防史』の感想をまとめてみたいと思います。

それはそれとして、再度通読して思ったことは、「これって軍師の『日本の軍事史』としても読めるよなぁ」ということ。神代から近代までの日本におけるRMA(軍事革命)に関する、軍師の考察の集大成でもあるわけですよ。同書で言及されている軍事解説部分は以下の通りです。

・垂仁天皇の后の兄が叛乱を起こして立て籠もったのは、稲藁を積み上げた城であったという――(11頁)
・それまで日本軍には、シナ軍風の「軍旗」はなかったのだが――(49頁)
・政府は、民間が強力な武器を私有することは禁止した――(54頁)
・日本の船軍は、戦術としてはただ各船バラバラに――(56頁)
・将門は、同じように坂東に土着して割拠していた他の土豪、さらには親族とも、しばしば矢戦に訴えて――(78頁)
・誰も利用していない荒蕪地を、自己の資力によって――(89頁)
・「平の清盛」はそれまでに、巨費を投じて安芸の厳島周辺の海運インフラを――(102頁)
・「源の範頼」の本隊は海岸線の本道をゆっくりと西進した――(115頁)
・四国の海賊や土豪は、義経軍との戦闘よりも、その何の遠慮もない――(117頁)
・掠奪的でない、統制のとれた組織的進退に慣熟した平家の暴力装置は――(117頁)
・平家には、宋人から買った大船も複数あった――(121頁)
・モンゴル軍の強みは、その歩兵部隊に持たせた――(141頁)
・だが日本軍にとって幸いだったことに――(141頁)
・二度の元寇から日本社会が受けた影響は甚大だった――(164頁)
・シナ大陸から世紀に日本へ輸入された鉄で――(181頁)
・元に代わった明朝が、「倭寇」対策に乗り出す頃には――(182頁)
・41:「槍」が弓にとってかわる――(192頁)
・42:武田信玄の登場と退場――(197頁)
・種子島で国産化に成功した火縄銃のモデルは――(204頁)
・これに対して日本では、火縄銃は個人の狙撃銃として急速に普及した――(206頁)
・生火を扱う火縄銃では、密集陣を組むことがそもそもあり得ないので――(206頁)
・もし、明国の広範囲の海岸に対し、多数の船舶で分散的に――(214頁)
・トルコ系やモンゴル系の遊牧諸民族が、ステップ平原からも漸時駆逐された――(232頁)
・もうひとつは、鍋島藩を含む港湾警備担当藩が――(246頁)
・57:「雷汞」と「雷管」の製造――(249頁)
・南北戦争の終戦は、シナおよび日本向けの中古小火器の国際価格を――(259頁)
・幕藩制下の伝統的な軍事機構では、たとえば「中間」「小者」は――(262頁)
・日本の人口が大正末までに幕末の3倍前後に増え――(266頁)

この辺の部分は、狭義の意味での“軍学者”らしさが光っているところです。







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