2011年3月5日土曜日

原、落合、岡田の“監督力”:その3

原辰徳の『原点』(中央公論新社)のファーストインプレッションは、「薄っぺらいなぁ、コレ」。最初から最後までとってつけたようなこと――「少しだけ頭の良い松岡修造」「出来の悪い求人広告のコピー」のような内容。これに一番近かった感覚は、松本人志の『しんぼる』の終盤を見たときに感じた薄っぺらさ――しか書かれていないんですよ。

一々あげつらうのも趣味が悪いので、ひとつだけ特徴的なところを引用してみましょう。

「僕は、江戸中期の米沢藩主・上杉鷹山が好きで、彼について本を読んでいる。論語の言葉「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」(過ちを犯した時は、躊躇することなく速やかに改めよ)は、彼のモットーの一つである」(77頁)

「中国の三国時代、蜀漢の軍師・諸葛孔明の政治の基本は『信賞必罰』だった。(中略)諸葛孔明にならったわけではないが、僕がシーズン中に出す監督賞の基準はただ一つ。僕がファンの気持ちで『やはりプロだな』と感動したプレー」(168頁)

「余談になるかもしれないが、僕は『三国志』でいえば、曹操のようになりたいと思う。巨大戦力によって絶対的な地位を築き上げ、残酷かつ冷淡、手段を選ばない。おそらく僕は、あそこまでにはなりきれないだろう」(94頁)

もうね、『週刊ダイヤモンド』にいかれた中小企業のワンマン社長みたいなセンスがね……。

『三国志』がお気に入りらしいけど、「多分、三国志を元ネタに書き散らされたビジネス書しか読んでない(読んでても吉川英治版まで)んだろうなぁ」と思わせるような底の浅さ。上杉鷹山が好きなのは結構なことだけど、自らの監督論を書く本で偉そうに持ち出したら笑われるのがオチでしょ。為政者のための道徳という意味で権威づけした物言いをしたいのなら、せめて『吾妻鏡』くらいを持ち出してほしいものです。しかも、こういう“権威”を持ち出して言わずもがなのことを書くってことは、自分で書いたことを血肉化していないからですよ。

論旨が一貫していないところも薄っぺらいと思わせる大きな理由の一つ。あるところで「選手は強い」「強い選手」と書きながら、別のところで「選手は弱い」と書いたり、あるところで「信念を押し付けるのはダメ」と書きながら、その後に「岩をも通す信念が必要」と書いたり――と、まぁ、この本を読む限りにおいてはポリシーのポの字も感じられない、というのが率直な感想です。

このように薄っぺらい本しか書けない原が、なぜ勝てるのか? といえば、こうした薄っぺらさが原のキャラクターと絶妙にマッチしているからではないかと想像しています。

つまり、ただのオッサンが言えば「バカじゃねーの?」で済まされることも、アノ経歴、アノ顔、アノ無邪気(に見える)な“永遠の若大将”が言えば、「コイツが言うならしょうがない」と納得させられてしまうという。ある種、周りの人にアイドルを愛でるような気持ちにさせるキャラクターであればこそ、多くの選手が、この本で書かれているような薄っぺらいゲキや主張にも素直に従っているのではないか? と勝手に考えています。もちろん、原に対して「バカじゃねーの?」と思う選手もいるんでしょうが、そういう肌に合わない選手(例:仁志敏久、二岡智宏、矢野謙次)は冷遇or放逐すると。

まぁ、後半はほとんど根拠のない妄想ですが、案外、当らずといえども遠からずってところではないでしょうかね?





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