**「私家版・兵頭二十八の読み方」のエントリでは、日本で唯一の軍学者である兵頭二十八師の著作を、独断と偏見を持って紹介します**
昨日のエントリでは、草思社の著作の“共通”点について書きました。今日は一昨日指摘したここ最近念入りに言及している“ファクター”について取り上げます。
草思社の既刊『日本人が知らない軍事学の常識』は、発売後すぐに重版がかかるほど売れたそうです。実際、軍師も新刊で「著者が予想しないほどに好評であった」(287頁)と書いているように、近年では珍しく一般読者に受け入れられた著作といえましょう。
かねてから指摘しているように、新刊のテイストも既刊と同じように、一般読者に向けてわかりやすさを意識したものとなっています。具体的な箇所について数え上げるとキリがありませんが、一つだけ例を挙げましょう。
例えば迫撃砲についての解説では――
「前線の歩兵部隊は、射程数キロメートルの対戦車ミサイルも持っているし、迫撃砲も装備している。ちょっと説明すると、一般に、迫撃砲は、『砲兵』部隊には属さない。歩兵部隊が持って歩く、歩兵部隊固有の『重火器』なのだ」(201頁)
――と、書いています。
迫撃砲が砲兵ではなく歩兵のモノであるということは、ちょっとしたミリタリー好き(=ほとんどの兵頭ファン)であれば誰もが知っている“常識”です。一方でこの“常識”は、大多数の一般読者が承知しているものではないことも事実です。これまでの軍師の著作では、このような“常識”についてまでページを割くことはほとんどありませんでした。そう考えると、既刊に続いて新刊も、一般読者向けを意識したテイストで書いているといえるのではないでしょうか。
ではなぜ、このような一般読者向けの著作を上梓するようになったのか?
手前は、今夏から関係各所で発信しまくっている「日本国憲法の廃棄と五箇条の御誓文への回帰」(以下、<廃憲>)の主張が、一つのカギになっていると当て推量しています。
この<廃憲>の主張ですが、軍師は処女作である『日本の防衛力再考』(銀河出版)から一貫して主張しています。
「本書がくどくどと述べているように、一国の占領とは、在住する全主権者が征服者の銃剣の間合いに置かれる状態である。精神的・物理的な間合いを奪われた占領下では、どんな住民も真の自由意志は持ち得ない。したがって、連合軍の占領下で行なわれた選挙や国会決議には、日本国民の自由意志は反映し難い」
(中略)
「成文憲法が規定してくれていようがいまいが、正当防衛や緊急避難の権利は、人間が生まれながらに持ち、かつ、どの公権力に対しても決して手放すことのありえない、最低限の自然権である。占領下の日本国民は自由意志を奪われていたが、そこに自由意志があろうがなかろうが、この二つの最低限の自然権を放棄するという社会契約は、誰も結ぶことができないのである」(184~186頁)
ここでは日本国憲法の持つ欺瞞について指摘しているだけに止まっていますが、その後、2006年に出版した『日本有事――憲法を棄て、核武装せよ!』(PHP研究所)で、明確に<廃憲>という考え方を打ち出しました。
「公然とウソをつくことは恥ずかしいと思わないと自由もないのだ。だからシナ人が支配する空間に自由はない。シナ儒教は政治家がウソをつくことを許容する」
「なのに、昭和前期の日本の官僚にも政党人にも自己説明力はなく、庶民に武侠精神がないために、ウソつきが罰せられなくなり、満州事変を結果したのだ。近代日本はシナ人の同類に落ちぶれたのだ」
「五箇条の御誓文は近代国際法主義で、これは政治家のウソを禁ずる。反近代の儒教は政治家によるウソを禁じない。これが満州事変から敗戦までの、精神的背景である」
(中略)
「この事情は戦後も変わっていないだろう。マックKEMPOHが反自由契約であると分からないようでは、日本の代議士はまだまだアカウンタブルではない。自由とは何かが説明できないのだ」(185~187頁)
以降、この<廃憲>は、兵頭流軍学の中心的な主張となり、ほとんどの著作において何がしかの形で訴えて続けています。そして今夏、SAPIO、半公式ファンページ、チャンネル桜、そして新刊で「江藤淳と三島由紀夫が向き合った憲法改正」をテーマとする論説を乱れ打ち。<廃憲>について、これまでよりも一層念入りに言及してきています。
さて、ここで問題。
草思社から上梓した著作では、2冊続けて一般読者向けにシフトした内容という“共通”点があり、ここにきて<廃憲>を念入りに言及するという“ファクター”がある。
そこから導き出される答えとは?
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