2012年4月25日水曜日

『ニーチェの警鐘』を読んで考えた:その1

*以下、適菜収先生の新刊『ニーチェの警鐘』を読んで、いろいろ考えさせられたことについて、思いついたことをつらつらと書いていきます。あと、このタイトルのエントリは99.9%与太話なので悪しからず。

適菜先生は数々の著作を通して何が言いたかったのか? 手前の考えでは、「民主主義は数ある宗教の一つ」という事実を訴えたかったのだと理解しています。

えっ? 宗教という言いかたは挑発的だって? だったら「民主主義は数ある主義(思想)の一つ」と言いかえましょう。ただし、どっちにしても同じことなんですけどね。

というもの、宗教も主義(思想)も根っこのところでは「正しさを保証する根拠が超自然的な何か」であって、結局のところ同じものなわけだから。実際、宗教も主義(思想)も、英語で見れば「マルクス主義=Marxism」「社会主義=socialism」「儒教=Confucianism」「仏教=Buddhism」「プロテスタント=Protestantism」……etcと、だいたいのものには「ism」がつくじゃぁないですか(ismのハナシは呉智英先生の受け売りです)。

いや、民主主義はdemocracyであってismはつかないから、その理屈はおかしいって?

……ここは適菜先生にお出まし願いましょうか。

「民主主義は、「一人一人が完全に平等である」という妄想で成り立っています」
「社会に貢献する人も社会に害を与える人も同じ権利をもちます」
「これは絶対存在である≪神≫を想定しないと出てこない発想です。民主主義や社会主義の根本にある平等主義は、≪神≫との距離における平等なのです」(68頁)

「ルソーはキリスト教と≪自然権≫をベースに≪一般意志≫をつくりあげます」
「革命のイデオローグたちは、民族の歴史・民族の法を否定し、≪一般意志≫により「新しい権力機構」を設計すべきだと説きました。≪法の支配≫は伝統や慣習、先例に基づきますが、法の根拠を≪一般意志≫に置き換えた結果、歴史に対する責任が失われたわけです」(69~70頁)

つまるところ「民主主義=≪民主教≫」ってことですよ。

となれば、宗教と主義(思想)の与太話を書くにあたっては、用語をどっちかに統一した方がわかりやすいんじゃないかと思うんですけどね。つまり、「キリスト教」「儒教」「仏教」「民主教」「マルクス教」「国家社会教」にするか、「キリスト主義」「孔子主義」「仏陀主義」「民主主義」「マルクス主義」「国家社会主義」とするかというね。

いやいや、儒教とマルクス主義は違うじゃねぇかって?

だ・か・ら、どっちの“教義”も「正しさを保証する根拠が超自然的な何か」なわけでしょ? もの凄く乱暴にいえば、儒教の根拠は「孔子さまは『五常、五倫は大事』と言った」であり、マルクス主義の根拠は、「マルクスさまは『カネとモノで世の中は動く』と言った」ってことでしょう。どっちのハナシもつきつめれば「実証的でもなんでもない=超自然的な何か」なわけだから。

いやいやいや、五常、五倫は単なる道徳規範であって実証的じゃないかもしれないけど、唯物論は『資本論』その他の著作で科学的に定義づけられているものだ! って?

えーとですね、カネとモノだけで世の中は動かないってことは、イスラム原理主義勢力の自爆テロ一つとっても明らかじゃないですか。もっと事例が必要ですかね?



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