2012年4月9日月曜日

<野球本メモ>「エースの資格」、江夏豊:その1

●目次
・プロローグ:エースはもういないのか?
・第1章:エースの資格
・第2章:エースの武器
・第3章:抑えのエース
・第4章:孤独なエースとチームメイト
・エピローグ:大事なのは工夫と決断力

――以下、同書で初出と思われるエピソードを中心に紹介。

「ただ、私がほんとうにほうりたかったのは、ドロップに近いカーブでした。それを巨人の堀内恒夫が投げているのを見て、『俺もホリみたいなカーブがほうりたいな』と思って、一生懸命に練習したんです。自分でも恥ずかしくなるぐらいに練習したけど、結局、どうしてもほうれなかった」
「これは私が基本的に不器用だったのと、ボールの握り方が自分の指と手に合わなかったからです。それでも私は『なんとかしたい』と考えて、ついには恥をしのんで、堀内本人に聞きにいったことがありました」
(中略)
「当時、私は二十四歳のプロ六年目。すでに二〇勝も二度達成して、ある面では天狗になってい、チームのなかで『自分がいちばんだ』と思っているころです。そんなときに、ライバルチームである巨人のエース、ましてや同年輩の選手に教えを請うなんて、かなりの勇気がいりました」(116~117頁)

――江夏がカーブしか投げられなかったことは有名だが、そのカーブに磨きをかけるために堀内にまで教えを請うていたことは初めて知った。

・野村克也が江夏に抑え転向を飲ませる際に言った、「野球界に革命を起こさんか?」というセリフ。確かに言われたが、実際には何が革命かわからなかったし、どういう意味なのかも飲み込めなかった。

「のちのち聞いた話では、そのときの監督は眠たかったから、『いいかげん、早く話を終わらせて寝ようか』と思っているときに、たまたま『革命』という言葉が出てきたらしい」
「そんな状況でしたから、私はその日を境にきっぱりと転向を決断したわけでもなく、なんとなく納得したようなものでした」
(中略)
「その後、先発した試合で結果が出なかったこともあって、やむなく転向を受け容れた。これが事の真相です。以降、野村監督はいっさい、私を先発では使わなくなりました」(158~159頁)

――野村へのディスリスペクトその1。既著で自ら劇的に語り、それを真に受けたスポーツライターがよりドラマチックに書いていたエピソードを修正している。

・抑え専任なんて初めてのことで、調整法もわからない。監督に聞いたら「好きなようにしろ」とのこと。前例がないのは自分だけではなくて、チームメイトも同じ。監督から指示された「リリーフ専門としての試合の入り方」がチーム内で問題になった。

「『江夏、おまえは毎試合、登板のスタンバイをしておけ。終盤以降、自分たちがリードしているときにはいつでも出られるように。その代わり、ゲームの前半は好きにしてていい。ベンチに入らなくてもいいし、ロッカーで休んでいてもいいから』」
「この言葉が、ほかの選手たち、チーム全体に伝わっていればよかったのですが、なぜか監督は伝えていなかったんですね」(160頁)

・指示を受けて5回までロッカーでマッサージを受けて、6回からベンチに入るスタイルにした。しかし、当時のプロ野球界では、ゲームに出ない投手でも1回からベンチに入るのが当たり前だった。事情を知らない野手は、「何を勝手なことを!」と反発した。

「とりわけ嫌な思いをしたのは、外野手の広瀬叔功さんから文句を言われた一件です。広瀬さんは人望が厚く、優しいお人柄で、私にとっては南海でいちばん愛すべき先輩でした。それが、ある日の大阪球場のロッカー、チームメイトがそろっているところで突然、怒鳴られたんです」
「『ナニしとんのや! 一回からベンチに入ったほうがいいぞ!』」
「大ベテランの広瀬さんにすれば、私の行動に反発しているほかの選手たちの代表として、文句を言いにきたようでした」
(中略)
「もちろん、内心は悔しかったですよ。ひと言、野村監督が親切心をもって、選手みんなに説明してくれていたらよかったのに、監督はそこまで配慮が利かない人だったんですね」(161頁)

――野村へのディスリスペクトその2。野村の著書を読むと、こうした配慮は当たり前のようにしていたように読めるのだが、実際はそんな配慮など微塵もなかったとの証言。ただし、当時の江夏はバリバリの「野村派」であり、対立派閥の「広瀬派」のトップが、「ここでシメてやろう」と考えて一発カマした可能性も微粒子レベルで存在するのかも知れない。といっても、広瀬が人格者なのは衆目の一致するところなので、恐らくは江夏の証言が正しいのだろう。

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