2012年4月26日木曜日

『ニーチェの警鐘』を読んで考えた:その2

*以下、適菜収先生の新刊『ニーチェの警鐘』を読んで、いろいろ考えさせられたことについて、思いついたことをつらつらと書いていきます。あと、このタイトルのエントリは99.9%与太話なので悪しからず。

民主主義について適菜先生は、「十八世紀に発生したキリスト教カルト」「キリスト教を換骨奪胎したものであり、人類の弱体化を目指す宗教」(68頁)と定義づけています。手前の考えでは、「民主主義=キリスト教の抽出物」ですが、言葉は違えど意味はほとんど同じです。

で、手前の言う「民主主義=キリスト教の抽出物」というハナシをもう少し詳しく喩えると、原始キリスト教がコーヒーの生豆なら、パウロ後のキリスト教は焙煎したコーヒー豆で、民主主義はこれにお湯を通して抽出したコーヒーとなるでしょうか。つまり、洗練されている分、風味が良くて誰でも口に入れられて、元々の原形すらわからないということ。

だからこそ、現代日本に生きる大多数の人々(=B層)は、「民主主義が数ある宗教の一つ」であることすら認識できず、「まぁ正しいことなんでしょ」「民主主義と人権は大事なことだよ」「社会制度として部族社会とか封建主義より優れている」……etcと、なんとなく良いこととか絶対的真理のように考え、「民主主義が数ある宗教の一つ」であることすら想像できないわけです。その様子は、コーヒーの存在を全く知らない人が、カップ一杯のコーヒーを飲んだときに、コーヒーの生豆や焙煎工程を想像できないことに似ているといっていいでしょう。

じゃぁ何だ、民主主義はキリスト教であり、つまるところ宗教だからダメっていうのか?

と問われれば、「いえいえ。宗教が悪いわけじゃぁないッス」と答えるしかありません。実際、宗教はほとんどの人に必要なものだと思っていますから。

そもそも人が集団生活を営む以上、どんな形であれルールってものが必要になる(あるいは自然発生する)ものですが、このルールの基になるのが宗教ですからね。

例えば「殺人はダメ、絶対!」というルールについて。多分、人間の本能には「殺人をしてはいけない」というプログラムはないと思います。であればなぜ、全人類の大多数は殺人をしないのか? といえば、「殺人はダメ、絶対!」というルールがあるからであり、そのルールの大元が宗教であるからでしょう。

一例を挙げてみると――

・殺人をしたら御天道さまに顔向けできない=神道
・殺人をしたらご先祖さまに顔向けできない=儒教
・殺人をしたら延々と地獄を彷徨うかも知れない=大乗仏教
・殺人をしてはいけないと神様が言った=一神教

――ってことです。近代刑法について言えば、これはもう適菜先生の言う「近代的諸価値=キリスト教」ですからね。つまり、「道徳=宗教」「常識=宗教」ってことですよ。なので手前としては、よっぽど奇特な人でない限り、人生には宗教が絶対に必要であると考えています。



0 件のコメント:

コメントを投稿