2012年4月29日日曜日

『ニーチェの警鐘』を読んで考えた:その5

*以下、適菜収先生の新刊『ニーチェの警鐘』を読んで、いろいろ考えさせられたことについて、思いついたことをつらつらと書いていきます。あと、このタイトルのエントリは99.9%与太話なので悪しからず。

≪民主教≫はイカン! といい、選挙は≪民主教≫の儀式であり、選挙ごときで世の中を変えることがおかしい!! と主張する適菜先生は、ニーチェの言葉を借りて以下のような社会を目指すべきと書いています。以下、ちょっと長いですが『ニーチェの警鐘』より引用します。

「ニーチェは健康な社会は、たがいに制約し合いながら三つの累計に分かれるといいます」
「第一のものは≪精選された者≫です。彼ら≪最上級階級≫は≪高貴なる者≫として≪最小数者≫の特権を持つ」
「第二のものは、≪権利の守護者≫≪高貴な戦士≫≪審判者≫といった第一のものに仕えるものです」
「第三のものは≪凡庸な者≫≪大多数者≫です」
「こうした階級の秩序は、恣意的なものではなく「生自身の至高の法則を定式化したもの」であるとニーチェは言います」
「こうした考え方は、平等主義が浸透しているB層社会においては受け容れられないでしょう。しかし、ニーチェに言わせれば不平等こそが正義なのです」

「権利の不平等こそ、総じて権利があることの条件である。――権利は特権である。各人はおのれの流儀の存在のうちにおのれの特権をもっている(『反キリスト者』)」

「権利は抽象的な概念ではなく、現実世界において個々に所属するものです」
「こうした「正しい格差社会」においては、≪凡庸な者≫が軽視されることはありません」
「≪例外的人間≫が≪凡庸な者≫を大切に扱うのは義務であるとニーチェは言います。高い文化はピラミッドのようなものであり、それは広い地盤のうえのみに築かれるからです」
「≪凡庸な者≫にとっては、凡庸であることが一つの幸福なのです
「彼らは、ほどほどの能力とほどほどの欲望によって成り立っている」
「しかし、B層社会においては、≪凡庸な者≫≪大いなる素人≫が圧倒的な自信をもって、ピラミッドをよじ登っていく」
「キリスト教本能が世界中に拡散した結果です」
「そして職業的詐欺師たちが≪凡庸な者≫を唆す」

「靴屋や教師が、本来なら自分はもっとましなことをやるために生まれついたのだと、そういう顔をしているのを見るのは痛ましいことだ(『権力への意志』)」

「近代的理念により、「その気になってしまった」のがB層です」(85~86頁)

ここで適菜先生(=ニーチェ)が思い描いている社会がどのようなものなのか? 引用した字面だけを追えば、「共和制ローマ? あるいは絶対君主制?」と読めなくもないですが、本当のところは良くわかりません。一つハッキリといえることは、「≪民主教≫以外の政体」ってことなんでしょう。

ただし、諸々の条件を全てクリアして首尾よくクーデターを成功させて、↑のような政治体制を実現したとしても、新政権が国民の支持を得ることは難しいのでは?

多分、「政権の正統性はどこにあるのか?」という政権運営の初手の段階で躓くことでしょう。なぜなら国民の大多数はB層であり、B層であるからこそ、≪民主教≫の手続きに則って樹立された政権でなければ、「そんな政権に正統性なんぞあるかぁ!」と反対することが明らかだからです。

クーデターがダメなら、手前も含めて全ての国民が目を覚まし、投票に行かず、投票率がゼロになり、議会制民主主義そのものが揺らぐ……ってことになれば良いのかも知れません。でも、この筋書きは日本国憲法の廃棄以上に難しいハナシであって、夢物語と同じでしょう。

となれば、どうすればいいのか?

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