1860年からは「モデナの勢力圏を巡る不毛な10年間」が続く。何が不毛かって、影響力を高めるたびに「顧問追放」「大使追放」を連発されて、いつまでたってもオーストリアの影響圏から除外できないってことです。これ、オーストリアがモデナ以外に影響圏を及ぼしていればやりようもあったんだろうけど、モデナ一国だけだからなぁ。こっちが外交活動を活発化させると、すぐに反応して妨害してくるし。
というわけで、↑のようないたちごっこを続けているなか、61年に南北戦争(64年、痛みわけ)、67年に仏蘭戦争(68年、フランスがフランデレンをゲット)が勃発。68年から2年連続で政治改革(労働者連合を2段階解禁)を進めたり、ナイル川の水源を探索。その他は特に大きな動きはありませんでした。
で、9年ほどいたちごっこを続けた結果、「これ以上やってもゲーム終了までモデナを影響圏に置くことはできない」と判断。禁断のセーブ&リロードにより一時的にオーストリアを担当して、モデナへの影響力をリセット(イギリスに対する顧問追放)。即セーブしてから両シチリア王国を担当することで、無事、モデナを影響圏から除外することに成功。69年1月にモデナを勢力圏に追加しました。
1869年1月から来るべき対オーストリア戦争に向けての準備を始める。まず、影響下にある近隣諸国に通行許可を取ってオーストリアとの国境に常備兵力を配置。6月に総動員を発令して、動員兵力を「おとり師団」と「予備師団」に再編成。翌70年1月。機関銃待ちだった研究を解禁→完成したところを見計らって、オーストリアに宣戦布告する。
統一戦争という大義名分の下、ロンバルディア解放を目指す戦争には、同盟国である北ドイツ連邦とバイエルンのほか、ルッカ、モデナ、教皇領、パルマ、サルディニア・ピエモンテ、トスカーナが参戦(同盟国ギリシャは参戦拒否)。北のドイツ、西のバイエルン、南の両シチリアという三方面作戦を強いることに成功する。彼我の戦力差は2.5倍くらいあるものの、陸軍技術で機関銃を持ち、中心戦力に近衛兵旅団を置く編成なので、同数で戦えば絶対に負けないはず。北ドイツ連邦も開戦と同時に「モルトケの改革」を選択して、世界最強レベルの陸軍になっているだろうから、打つ手を間違わなければ勝てるはず。
大まかな戦略方針は「ヴェローナ、ブレシア、ベルガモのラインで敵を引きつけ、パルマ、モデナを通してジェノアに追い込み、ここで包囲殲滅する」というもの。おとりとなるのは、動員した「おとり師団」と同盟国の軍団。戦い方としては、「相手に攻めさせた後、予備師団を送り込む」という形を基本とする。防御で圧倒的な力を発揮する機関銃を最大限に生かした戦い方だ。
と、目論んでいても思い通りにいかないのが戦争の常。モデナは開戦早々に手持ち軍団が壊滅して勝手に和平条約を結ぶし、バイエルンも右に同じでオーストリア軍の通り道になってるし……という感じで、想像以上に大規模な軍団が南下。北ドイツ連邦は当然のようにオーストリア本土を蹂躙しているものの、軍団を包囲殲滅するような作戦をとっているわけではないので兵力はあんまり散らず、結局のところ両シチリア軍がオーストリア軍の2/3くらいを相手にすることに。果てさてどうなることやら……。
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