●目次
・第一章:少年よ野生に帰れ
・第二章:滝川中学のモーレツ三年間
・第三章:十七歳で巨人入団、秋の首位打者
・第四章:陸軍航空戦闘隊員・青田昇
・第五章:天才ホームラン王大下弘の出現
・第六章:我れ二冠王を奪取せり
・第七章:野球は戦争の縮図である
・第八章:三原排斥連判状事件の真相
・第九章:空を飛ぶラビットボール
・第十章:V9巨人より強かった第二期黄金時代
・第十一章:引退へ……我が“球界放浪期”
・第十二章:三原さんに「参った」と言わせた
・第十三章:ID野球の元祖は阪急だった
・第十四章:我れ監督の器にあらず
・第十五章:伊東キャンプは第二の茂林寺だった
・第十六章:我が舌禍退団事件と長嶋の解任
・終章:巨人へ、プロ野球へ――僕の提言
・弔辞:友人代表/千葉茂。巨人軍監督/長嶋茂雄
――以下、第五章、第六章より
昭和20年11月23日。戦後初のプロ野球の試合は4試合の東西対抗戦だった。西宮球場で行われた第3試合、大下弘は東軍の3番。9回裏、阪急の笠松から右中間スタンドにホームランを打つ。戦後第1号のホームランである。
「我が目を疑うとはこのことだ。ホームランというものを、僕は戦前一年半のプロ生活で、たった一本しか打っていない。ホームランを打つことなど、夢のまた夢であった。それをこの新人はいとも軽々とわれわれに見せつけてくれた。それも大きな大きなフライボールである」
「戦前の野球で、最も禁物とされたのは、このフライを打つことだった。当時の飛ばないボールと当時の打法では、フライを上げればまず外野手に取られてしまう。ゴロやライナーを打って、野手の間を抜くのがいいバッティングとされた。川上さんの“弾丸ライナー”が理想である」(106頁)
青田曰く、「日本プロ野球の歴史において、3つの重大な時期に3人の天才の出現して、プロ野球を救った」と。一人は草創期の沢村栄治。二人目はホームランを連発して戦後の爆発的プロ野球ブームを巻き起こした大下弘。三人目は高度経済成長期に向かうときに入団して、プロ野球人気を不動のものにした長嶋茂雄。
昭和21年。戦後初のペナントレースで記録した大下弘のホームラン数は20本。2位で10本打った川上哲治の倍。後に“物干し竿”で46本のホームランを打った藤村富美男は3位の5本である。この20本という数字が、それまで六大学一辺倒だった日本の野球ファンの目をプロ野球に向ける契機となった。
「(都築注:ホームラン狙いのために)打法を変えようにも、バッティング・コーチがいるわけじゃない。バッティング投手もいなければ、もちろん現代のようなマシーンもビデオもない」
「頼れるのは自分一人だ。自分一人の工夫だけだ。どうしたらレフトへ引っぱれる打法を身につけられるか。そこで試みたのが左手一本でノックを打つという方法である」
「左手一本で打ちつづけると、自然に左手の引きと手首の返し(ターン)が鋭くなってくる。僕の打球はレフト線ぎりぎりに大きなフライとなって飛ぶようになってきた」
「しかし、この二十二年の成績は、フォーム改造の途中だから惨憺たるものになった」(114頁)
「(都築注:巨人に復帰した昭和23年の春キャンプにて)研究の第一課題は『どうしたらもっとホームランを打てるか』にあった。もちろん僕らの標的は、あのホームラン王大下弘である。いかにすれば、あの大下以上のホームランを打ち、日本の打撃の主導権をこっちの手に奪い返せるか。千葉さんは『オレはホームランを打つガラやないから、ライト打ちに徹する』と言う。が、僕と川上さんは違う。どうしてもホームランを打ちたい。大下を打倒したいの一念に燃えていた」(123頁)
日本プロ野球において、いわゆる打撃論が勃興するのが丁度この頃のこと。マスコミでも三宅大輔(『近代打法』恒文社)、新田恭一(ゴルフスイング理論)などが新たな打撃論を展開していた。
「彼らの理論を一言に要約すれば、こういうことになる」
「戦前からの日本のバッティング(それは別名“早稲田式バッティング”と呼ばれたが)では、ホームランを量産することは不可能だ。早稲田式は体重を前足に大きく移動させ、ボールを前(投手寄り)で捕らえる。これでは駄目だ」
「『もっとボールを引きつけ、体の回転とリスト(手首)のターンでボールを叩け。そうすれば、日本人でももっともっと長打が打てるようになる』ということになろうか。言ってみれば、日本のバッティングに革命を起こそうという熱気が、彼らの論にはみなぎっていた」(124頁)
――つまり、この頃から「前で打つか、後ろで打つか」の論争があったということ。スポーツマスコミの人たちは、現役選手のインタビューを下に「おかわり君は前で捕らえているのか否か」みたいなことを書く前に、一通り昔の文献に当たってから、自らの考えを深めてみたほうがいいのではないか?
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