海音寺潮五郎の新装版『西郷隆盛』全9巻をようやく読了。最後は上野戦争で、本当にぷっつりと終わる。まぁ、言葉通りの絶筆だからしょうがないんだけど。しかし、9巻は前に書いたことの繰り返しが多いのと、西郷の礼賛が強烈だった。どれくらいアレかというと、熱烈な西郷ファンである手前もドン引きするくらい。一つ例を挙げると、戊辰戦争の契機となった江戸騒擾について、「この手紙の文句を信ずるなら、西郷には江戸藩邸の浪士等のしていることが、ほとんどわかっていなかったようである。浪士等は勝手な動きをしていたようである」(27頁)と、現存する手紙から見事に“立証”してるんだけど、実のところは西郷が教唆していたんであろうことは、まぁ間違いないわけで……。
そういった教唆をした手紙が残っていない一方で、「いやぁ、江戸藩邸のことは知らなかったでごわす」な手紙が残っていることも、当時の手紙の意味――私的なものであっても限りなく公文書に近いもので、私信というよりマニフェストに近いものだった。実際、書かれた内容のほとんどは、宛先となった藩士or浪士から仲間へ口々に噂されていたわけだし――を考えてみれば、「まぁ、西郷ほどの出来たリーダーが、あからさまな証拠を残すわけがないわな」と思い至るのが自然なわけだし。
ともあれ、薩摩史観の史伝としては第一級のものだし、読み物として面白いことは間違いないので、読了後の感想は大満足の一言。本当に言っても詮のないのことだけど、征韓論→西南の役までを読みたかったなぁ。
あと、戊辰戦争における徳川慶喜の醜態について、予てから手前が思っていたことを、以下のごとく一言一句言語化してくれたことも良かった。
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慶喜は京都を去って一週間立たぬ間に、手を打ちはじめたと見てよいだろう。手を打ってよいのである。王政復古派のやり方は無理であり、横車なのだから、慶喜が天皇をいただいての諸侯合議の公議政体を意図し、それで日本を立て直し、世界の日本たらしめる自信があるなら、遠慮することはない、大いにそれに邁進し、薩長や岩倉と堂々と戦うがよいのである。天皇を抱きこむ必要があるなら、抱きこむ工夫をするがよいのである。
しかし、慶喜はその点実に煮え切らない。戦うつもりがあるようでもあり、そうでないようでもあった。幕府方の連中は慶喜の煮え切らない態度にいらいらしている。
やがて、火の手は江戸方面で上がった。薩摩屋敷の焼打ちがあり、その知らせがとどくと、一時にわっと皆燃え上がった。そこで討薩表が草せられ、大軍が編成され、これをひきいて上洛ということになった。
ここまで踏み切った以上、慶喜たるもの、最後の最後まで、戦うべきなのである。しかし、彼の心はたえず揺れつづけた。揺れてやまないのは彼の性癖なのだが、この時は一そう揺れた。結局、城から一歩も出なかった。そのうち、戦況の報告がとどいた。ついに一月六日には、将士には明日は自ら出陣するとだましておいて、ほんの数人と城を脱出したのである。
「賊名が確定するのを恐れた」
というのだが、戦場に征討将軍宮が行き向い、錦旗がひるがえっているというのに、賊名が確定するのを恐れるというのは何たる言いぐさであろう。こんな時には勝たねばならんのである。勝つことによってのみ、賊名は雪がれるのである。勝てば官軍、負くれば賊軍とはこのことである。これが革命の論理なのである。
あるいは、戦いが長期にわたり、民を苦しめ、外国の難のおこることを恐れたのかも知れない。しかし、それを恐れるくらいなら、あれだけの大軍を擁していながら、なぜあの不用意さでノサノサと伏見・鳥羽に近づいて行ったのだろう。
要するに、徳川慶喜という人は、かしこい人ではあったが、つまりは太平の時代の才子にすぎない。風雲の時代の英雄にはなり得ない人であった。そのなり得ない人が、最後の将軍として最大の難局に当たらなければならなかったのは、大不幸であったといわなければならない。言うまでもなく、彼はなまじっかに英雄でなかったことが、日本のためには幸運であったが。
(68~69頁)
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