◆目次
・序章:虚構と史実のはざまで
・第一章:『甲陽軍鑑』が語る山本勘助の生涯
・第二章:信玄と勘助の対話
・第三章:武田家に遺した記憶
・第四章:「勘助流」軍略と築城術の全貌
・終章:山本菅助は山本勘助か
・山本菅助の名が記載されている「市川文書」とは、武田信玄が市川藤若に対して送った書状。その内容は「必ず援軍を出すから、決して上杉方に降伏しないでくれ。詳しい戦略は使者が口伝えで説明するから」というもの。ここで使者として書かれているのが山本菅助。
・この書状は、第三次川中島合戦の最中に送られたもの。あて先である市川藤若は、武田方に与する国人で高井郡の有力者。当時は、野沢城館や計見城を拠点として信玄を支援していた。もし、市川が謙信に降伏してしまえば、武田方の勢力圏は一気に川中島まで後退してしまうところだった。
・つまり、第三次川中島合戦の帰趨を制しうる国人だった市川藤若に対して、必ず援軍を送るので何とか持ちこたえるように――という激励の書状だったということ。結果、市川は奮戦し、謙信はこれを屈服できなかった。その後も謙信は大きな成果を得られず、第三次川中島合戦は武田方優位のまま終結した。
・信玄が市川に対して初めて書状を送ったのは6月16日。託したのは客僧で、内容は「6月18日に上野衆を援軍として派遣するし、北条氏康の援軍が上田に到着しているから、上杉方に降らないでほしい」というもの。そのうえで、詳細は使者に託す書状と口上で指示すると述べている。
・この書状と入れ替わりで市川から信玄より情勢を伝える注進状が届く。信玄は6月23日に返事を書き、武田方の対応を知らせ、さらにその詳細を使者に口上で伝達させた。このとき派遣されたのが山本菅助だった。
・当時、市川の存在は武田方にとって、戦略上きわめて重要だった。その領域は千曲川をはさむ飯山城以北の上杉領と直接対峙する最前線であり、市川が武田方にあってこそ、謙信を川中島方面への長期に及ぶ侵攻を牽制できていたのだ。だからこそ信玄は、市川を支援すべく、様々な手段を講じた。そして、信玄に命じられて、その意図を伝えるために派遣されたのが、実在する“山本菅助”だった。
・信玄の書状48通の使者を点検していくと、その役割はほぼ例外なく、しかるべき身分の者か、信玄から格別の信頼を得ているものだけに任命されていることがわかる。山本菅助の場合は、領国内への上意の使者にあたり、上級家臣であった可能性が高い。
・当時の信玄は、何としても市川の降伏を食い止めたかったのであり、その口上を伝える使者の役割はことさら重大だった。
・「信玄は、自分が藤若を重視し、大切に思っていることを納得させる名代として、菅助を上意の使者に選任したのである。おそらく菅助は、藤若と何らかの人間関係を形成していたか、信玄の信頼が厚いことを藤若も十分に承知しているほどの存在だったのだろう。そう推論していくと、菅助がもし他国者であったとすれば、さきほどの武田家における昇進の通例と照らし合わせて、足軽大将であった可能性は高いと考えられる」(205頁)」
――「終章:山本菅助は山本勘助か」より。足軽大将一覧や48通の使者の分析などはバッサリ割愛。副題に「『甲陽軍鑑』とは何か?」とつけたいほど、『甲陽軍鑑』の意義と分析、その再評価を行っている。近年読んだ新書の歴史読み物としては間違いなく屈指の内容。
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