ブレトンで召喚士プレイを目指すことにしているから、真のノルドとはいえないけど、それでも結局『Dawnguard』を定価で購入。なぁに所詮1600円弱の買い物。半額でも800円だし、500円で“開発”した『Fallout3』を1300円で買ったと思えば、実にお買い得だったじゃないか――と、セール中に買わなかった後悔をすっぱいブドウ理論で押さえ込むことにする。正直、『Skyrim』のプレイを再開する気はないんだけど、やっぱりほら、DLCが落とせるのに落とさないというのは、何となく気分が落ち着かないからね。
というわけで、『Dawnguard』を導入した『Skyrim』の日本語化作業をしたんだけど、これで結局半日潰れる。といっても作業プロセス自体は――
「英語版→日本語化」していた『Skyrim』本体を「日本語版」に直したうえで『Dawnguard』を落として、ファイルの整合性をとってからテストプレイを行い、万全な「日本語版」への移行を確認。その後、日本語版の音声、インターフェイス等のファイルをバックアップしたうえで、「日本語版→英語版」に直し、ファイルの整合性をとってからテストプレイを行い、万全な「英語版」への移行を確認。その後、英語版の音声、インターフェイス等のファイルをバックアップしたうえで、バックアップしておいた日本語版の音声、インターフェイス等のファイルを英語版の関係フォルダに上書きする――
という単純なもの――起動するためにninファイルを弄らなければならなかった『Fallout3』に比べれば随分と敷居が低い――で、これにまごついたというわけではなくて、単純にファイルを落としたり、整合性確認のプロセスに時間が掛かったというだけのことです。
で、時間がかかったとはいえ「英語版→日本語化」は上手くいったし、既存MODもちゃんと動くことが確認できたのはいいんだけど、問題は『Dawnguard』が恙無く動くか否かが確認できないこと。
というのも、前回のプレイで作ったキャラをクリーンセーブせずに抹消していたので、残っているのがバニラでブリークフォール墓地に行く前のキャラのデータしかなく、当然、レベル10以下であることから『Dawnguard』のクエスト自体が発動しないので、ルーカン・バレリウスから日本語、英語、日本語で「お前は兄妹のためにスゴイことをやってくれた」という賛辞をいただくことで、「うん、今回も無事に動いたナ」という確認はできても、『Dawnguard』クエストが無事に動くか否かは確認できないわけですよ。
まぁ、コンソールを弄ってレベル10にしたり、「馬車でリフテン→砦にGO!」でイベント自体は発動するんだけど、やっぱり初体験の喜びと驚きってのは大切にしたいからね。
2012年10月7日日曜日
2012年10月6日土曜日
真のノルドなら定価で購入せよ、ということか?
セール終わってからおま国解除とは……鬼、鬼!
『Skyrim』の公式拡張パック『Dawnguard』のことですよ。海外版は8月3日に発売されていたものの、1.6パッチ以降対応(=1.5パッチしか対応していなかった日本語版は対応不可)で、当然のことながら日本語字幕&音声もないというおま国仕様だったので、つい先日の「エルダースクロールズセール」(The Elder Scrollsシリーズである『Morrowind』『Oblivion』『Skyrim』『Dawnguard』の割引祭り)でも、「ここは華麗にスルーして、ウィンターセールで買っちゃうもんね。次のセールなら3割引じゃなくて半額になるだろうし。オレ冴えてる! オレ最高!!」とほくそ笑んでいたのに、セール終了直後に公式日本語版1.7パッチ解禁&公式日本語対応とは……。いやぁ、これは商売というものを甘く見すぎていた手前の負け。ダウンロードしなくても「とりあえず開発」していればなぁ。
なお、公式DLCである『Hearthfire』は、いまだおま国です。
*おま国とは全世界で展開しているSteamが、「世界では売ってるけど、お前の国には売らないよ」と、日本のかよわきPCユーザーだけを狙って虐める行為のこと。まぁ、日本語ローカライズをビジネスにしている会社にしてみれば、おま国がなければ全ユーザーがSteamに流れていってしまうので、国内販売契約を盾にこういう措置をとるように求めることもわからなくはないんだけどさ。
『Skyrim』の公式拡張パック『Dawnguard』のことですよ。海外版は8月3日に発売されていたものの、1.6パッチ以降対応(=1.5パッチしか対応していなかった日本語版は対応不可)で、当然のことながら日本語字幕&音声もないというおま国仕様だったので、つい先日の「エルダースクロールズセール」(The Elder Scrollsシリーズである『Morrowind』『Oblivion』『Skyrim』『Dawnguard』の割引祭り)でも、「ここは華麗にスルーして、ウィンターセールで買っちゃうもんね。次のセールなら3割引じゃなくて半額になるだろうし。オレ冴えてる! オレ最高!!」とほくそ笑んでいたのに、セール終了直後に公式日本語版1.7パッチ解禁&公式日本語対応とは……。いやぁ、これは商売というものを甘く見すぎていた手前の負け。ダウンロードしなくても「とりあえず開発」していればなぁ。
なお、公式DLCである『Hearthfire』は、いまだおま国です。
*おま国とは全世界で展開しているSteamが、「世界では売ってるけど、お前の国には売らないよ」と、日本のかよわきPCユーザーだけを狙って虐める行為のこと。まぁ、日本語ローカライズをビジネスにしている会社にしてみれば、おま国がなければ全ユーザーがSteamに流れていってしまうので、国内販売契約を盾にこういう措置をとるように求めることもわからなくはないんだけどさ。
2012年10月5日金曜日
私家版・兵頭二十八の読み方:その21
**「私家版・兵頭二十八の読み方」のエントリでは、日本で唯一の軍学者である兵頭二十八師の著作を、独断と偏見を持って紹介します**
*前回の続き
草思社から上梓した著作では、2冊続けて一般読者向けにシフトした内容という“共通”点があり、ここにきて<廃憲>を念入りに言及するという“ファクター”がある。
そこから導き出される答えとは?
~~~~~~~~~~~~~~
手前が思うにその答えは、「軍師はついに、三島由紀夫、江藤淳が成し遂げられなかった憲法改正(もちろん理想は<廃憲>)に向けて本腰を入れたのだなぁ」ですよ。
彼らが憲法改正(以下、改憲)を目指したことについて、その理由とか行動について書き始めると、多分、一冊の本になるでしょう。そんなことは、浅学非才な手前の手に余る仕事なので、ここでは「三島が楯の会以降の一連の政治活動で目指したのは改憲」、「江藤がGHQの検閲について書いた『閉ざされた言語空間』で目指したのは改憲」くらいに捉えておきます。もの凄く大雑把な捉え方なので、ズバリ的中はしていないものの大幅に外しているということはないはずです。
加えて、彼らが言論活動をしていた当時は、言論だけで十二分に改憲が目指せた時代でもあったと、軍師は指摘しています。以下、兵頭二十八ファンサイト半公式の放送形式(8/13付)からの引用です。
>(前略)60年安保以降、日本の若いインテリたちが、あくまで言論だけで勝負するか、それとも、言論プラス、肉体的・物理的暴力で勝負を仕掛けるかという、分かれ道があったと思うのです。
>U:江藤淳は言論だけで日本を変えられると考えてたのですね?
>H:晩年はともかく、お若いころはそうだったでしょう。大学生が今より桁違いに少なくて、その少数のインテリだけ覚醒させればいいという時代だったから。その「言論」には、マスメディアだけでなくて、国会議事堂もあったでしょうね。「変える」とは、何を変えるんだということになるでしょう。それは、「1946憲法」なんですよ。あくまで。江藤先生の人生を賭けたゲームで、ぜったいにこいつを倒すんだと、肚をくくって射弾を集中していたボスキャラは、「1946憲法」なのです。
正直、↑の記事を熟読してもらえば、「<廃憲>が必要な理由」「三島と江藤が改憲を目指した理由」について全て把握できるので、このエントリをだらだら読む必要はありません。
「だったらこんなエントリなんて書く必要ないじゃないか!」って? いや、手前にとってのblogは、書きながら自分の考えを確認したり固めたりするためにも存在しているものなので、これはこれでいいんですよ。だいたいコレでおまんまを食べているわけでもないので、何を書いたっていいわけだし。
ともあれ、デビュー当時から訴え続け、以降の著作で肉付けし、2006年に明確な形に仕上げた<廃憲>という主張について、これまでは数千人の兵頭ファンに向けて訴えられていたものでした。「いやそんなことはない。最初からあまねく大衆に知らしめるために書いていたに決まっておろうが!」との反論もあるでしょう。でも、意図はどうあれ実際のところは、事実上兵頭ファンにしか届いておらず、一般読者に届くようなわかりやすい内容でもなかったということです。
それが今年になって俄かに変わってきた。広く一般大衆に知らしめ、具体的な成果に繋げようという、<廃憲>を実現するための言論活動へと本格的にシフトチェンジし、実際にその方針転換の第一歩となる、「兵頭流軍学のエキスを一般読者に理解してもらう」というミッションが、草思社の既刊と新刊の売れ行きという形で、具体的な成果を出しつつあるわけです。となれば、次の一手は、「一般読者に向けた<廃憲>の啓蒙」ということになるのでしょう。
しかしこれは、相当難易度の高いミッションでもあります。70~80年代とは違い、いまの時代は高校卒業者の6割以上が大学へ進学し、少数のインテリだのエリートだのはほぼ存在しなくなっています。それこそ、我が心の師である適菜収先生が指摘している通り、国民の「B層」化が劇的に進んだ結果、「B層」を動かさなければ、どんな政治課題も解決できなくなっているということ。
「一握りの大学生を啓蒙すれば改憲できる可能性だって微レ存」であったからこそ、エリート相手の言論で勝負をかけた三島や江藤でさえ、結局は敗北してしまった。翻って軍師が目指すのは、改憲よりもさらにハードルの高い<廃憲>で、かつ、啓蒙する相手が、かつてのエリート――少なくとも岩波書店の古典を100冊以上は読破し、資本論も大体諳んじることのできるくらいの知識を持つ大学生――に比べれば、確実に知的レベルの低い「B層」ですからね。難易度Very Hard。三島、江藤のチャレンジが『スーパーマリオ』のノーミスクリアなら、軍師のチャレンジは『CoD2』の「400高地の戦い」をベテランでクリアするくらいの難しさですよ。
そんな難しいミッションに軍師はどのように取り組んでいくのか? そして<廃憲>という政治課題を前に、一有権者としてどのように行動すべきなのか?
とまぁ、いろいろと書きたいことは山積みなんですが、仕事の合間にゲーム断ち、2ch断ちをして長文エントリに取り掛かるのが面倒なのと、連休中の仕事と連休明けの仕事の準備に取り掛かる必要があったりするので、ちょっと中途半端な感じではありますが、「私家版・兵頭二十八の読み方」のエントリ更新は一旦終了します。
*あと、念のために書いておきますが、ここまでのハナシは全て手前の勝手な思い込みをもとに書いたものです。ただ、軍師の真意はどうあれ、外形的な事実から見ていくと、このようなハナシが本当であっても不思議ではない――とはいえると思います。
*前回の続き
草思社から上梓した著作では、2冊続けて一般読者向けにシフトした内容という“共通”点があり、ここにきて<廃憲>を念入りに言及するという“ファクター”がある。
そこから導き出される答えとは?
~~~~~~~~~~~~~~
手前が思うにその答えは、「軍師はついに、三島由紀夫、江藤淳が成し遂げられなかった憲法改正(もちろん理想は<廃憲>)に向けて本腰を入れたのだなぁ」ですよ。
彼らが憲法改正(以下、改憲)を目指したことについて、その理由とか行動について書き始めると、多分、一冊の本になるでしょう。そんなことは、浅学非才な手前の手に余る仕事なので、ここでは「三島が楯の会以降の一連の政治活動で目指したのは改憲」、「江藤がGHQの検閲について書いた『閉ざされた言語空間』で目指したのは改憲」くらいに捉えておきます。もの凄く大雑把な捉え方なので、ズバリ的中はしていないものの大幅に外しているということはないはずです。
加えて、彼らが言論活動をしていた当時は、言論だけで十二分に改憲が目指せた時代でもあったと、軍師は指摘しています。以下、兵頭二十八ファンサイト半公式の放送形式(8/13付)からの引用です。
>(前略)60年安保以降、日本の若いインテリたちが、あくまで言論だけで勝負するか、それとも、言論プラス、肉体的・物理的暴力で勝負を仕掛けるかという、分かれ道があったと思うのです。
>U:江藤淳は言論だけで日本を変えられると考えてたのですね?
>H:晩年はともかく、お若いころはそうだったでしょう。大学生が今より桁違いに少なくて、その少数のインテリだけ覚醒させればいいという時代だったから。その「言論」には、マスメディアだけでなくて、国会議事堂もあったでしょうね。「変える」とは、何を変えるんだということになるでしょう。それは、「1946憲法」なんですよ。あくまで。江藤先生の人生を賭けたゲームで、ぜったいにこいつを倒すんだと、肚をくくって射弾を集中していたボスキャラは、「1946憲法」なのです。
正直、↑の記事を熟読してもらえば、「<廃憲>が必要な理由」「三島と江藤が改憲を目指した理由」について全て把握できるので、このエントリをだらだら読む必要はありません。
「だったらこんなエントリなんて書く必要ないじゃないか!」って? いや、手前にとってのblogは、書きながら自分の考えを確認したり固めたりするためにも存在しているものなので、これはこれでいいんですよ。だいたいコレでおまんまを食べているわけでもないので、何を書いたっていいわけだし。
ともあれ、デビュー当時から訴え続け、以降の著作で肉付けし、2006年に明確な形に仕上げた<廃憲>という主張について、これまでは数千人の兵頭ファンに向けて訴えられていたものでした。「いやそんなことはない。最初からあまねく大衆に知らしめるために書いていたに決まっておろうが!」との反論もあるでしょう。でも、意図はどうあれ実際のところは、事実上兵頭ファンにしか届いておらず、一般読者に届くようなわかりやすい内容でもなかったということです。
それが今年になって俄かに変わってきた。広く一般大衆に知らしめ、具体的な成果に繋げようという、<廃憲>を実現するための言論活動へと本格的にシフトチェンジし、実際にその方針転換の第一歩となる、「兵頭流軍学のエキスを一般読者に理解してもらう」というミッションが、草思社の既刊と新刊の売れ行きという形で、具体的な成果を出しつつあるわけです。となれば、次の一手は、「一般読者に向けた<廃憲>の啓蒙」ということになるのでしょう。
しかしこれは、相当難易度の高いミッションでもあります。70~80年代とは違い、いまの時代は高校卒業者の6割以上が大学へ進学し、少数のインテリだのエリートだのはほぼ存在しなくなっています。それこそ、我が心の師である適菜収先生が指摘している通り、国民の「B層」化が劇的に進んだ結果、「B層」を動かさなければ、どんな政治課題も解決できなくなっているということ。
「一握りの大学生を啓蒙すれば改憲できる可能性だって微レ存」であったからこそ、エリート相手の言論で勝負をかけた三島や江藤でさえ、結局は敗北してしまった。翻って軍師が目指すのは、改憲よりもさらにハードルの高い<廃憲>で、かつ、啓蒙する相手が、かつてのエリート――少なくとも岩波書店の古典を100冊以上は読破し、資本論も大体諳んじることのできるくらいの知識を持つ大学生――に比べれば、確実に知的レベルの低い「B層」ですからね。難易度Very Hard。三島、江藤のチャレンジが『スーパーマリオ』のノーミスクリアなら、軍師のチャレンジは『CoD2』の「400高地の戦い」をベテランでクリアするくらいの難しさですよ。
そんな難しいミッションに軍師はどのように取り組んでいくのか? そして<廃憲>という政治課題を前に、一有権者としてどのように行動すべきなのか?
とまぁ、いろいろと書きたいことは山積みなんですが、仕事の合間にゲーム断ち、2ch断ちをして長文エントリに取り掛かるのが面倒なのと、連休中の仕事と連休明けの仕事の準備に取り掛かる必要があったりするので、ちょっと中途半端な感じではありますが、「私家版・兵頭二十八の読み方」のエントリ更新は一旦終了します。
*あと、念のために書いておきますが、ここまでのハナシは全て手前の勝手な思い込みをもとに書いたものです。ただ、軍師の真意はどうあれ、外形的な事実から見ていくと、このようなハナシが本当であっても不思議ではない――とはいえると思います。
2012年10月4日木曜日
私家版・兵頭二十八の読み方:その20
**「私家版・兵頭二十八の読み方」のエントリでは、日本で唯一の軍学者である兵頭二十八師の著作を、独断と偏見を持って紹介します**
昨日のエントリでは、草思社の著作の“共通”点について書きました。今日は一昨日指摘したここ最近念入りに言及している“ファクター”について取り上げます。
草思社の既刊『日本人が知らない軍事学の常識』は、発売後すぐに重版がかかるほど売れたそうです。実際、軍師も新刊で「著者が予想しないほどに好評であった」(287頁)と書いているように、近年では珍しく一般読者に受け入れられた著作といえましょう。
かねてから指摘しているように、新刊のテイストも既刊と同じように、一般読者に向けてわかりやすさを意識したものとなっています。具体的な箇所について数え上げるとキリがありませんが、一つだけ例を挙げましょう。
例えば迫撃砲についての解説では――
「前線の歩兵部隊は、射程数キロメートルの対戦車ミサイルも持っているし、迫撃砲も装備している。ちょっと説明すると、一般に、迫撃砲は、『砲兵』部隊には属さない。歩兵部隊が持って歩く、歩兵部隊固有の『重火器』なのだ」(201頁)
――と、書いています。
迫撃砲が砲兵ではなく歩兵のモノであるということは、ちょっとしたミリタリー好き(=ほとんどの兵頭ファン)であれば誰もが知っている“常識”です。一方でこの“常識”は、大多数の一般読者が承知しているものではないことも事実です。これまでの軍師の著作では、このような“常識”についてまでページを割くことはほとんどありませんでした。そう考えると、既刊に続いて新刊も、一般読者向けを意識したテイストで書いているといえるのではないでしょうか。
ではなぜ、このような一般読者向けの著作を上梓するようになったのか?
手前は、今夏から関係各所で発信しまくっている「日本国憲法の廃棄と五箇条の御誓文への回帰」(以下、<廃憲>)の主張が、一つのカギになっていると当て推量しています。
この<廃憲>の主張ですが、軍師は処女作である『日本の防衛力再考』(銀河出版)から一貫して主張しています。
「本書がくどくどと述べているように、一国の占領とは、在住する全主権者が征服者の銃剣の間合いに置かれる状態である。精神的・物理的な間合いを奪われた占領下では、どんな住民も真の自由意志は持ち得ない。したがって、連合軍の占領下で行なわれた選挙や国会決議には、日本国民の自由意志は反映し難い」
(中略)
「成文憲法が規定してくれていようがいまいが、正当防衛や緊急避難の権利は、人間が生まれながらに持ち、かつ、どの公権力に対しても決して手放すことのありえない、最低限の自然権である。占領下の日本国民は自由意志を奪われていたが、そこに自由意志があろうがなかろうが、この二つの最低限の自然権を放棄するという社会契約は、誰も結ぶことができないのである」(184~186頁)
ここでは日本国憲法の持つ欺瞞について指摘しているだけに止まっていますが、その後、2006年に出版した『日本有事――憲法を棄て、核武装せよ!』(PHP研究所)で、明確に<廃憲>という考え方を打ち出しました。
「公然とウソをつくことは恥ずかしいと思わないと自由もないのだ。だからシナ人が支配する空間に自由はない。シナ儒教は政治家がウソをつくことを許容する」
「なのに、昭和前期の日本の官僚にも政党人にも自己説明力はなく、庶民に武侠精神がないために、ウソつきが罰せられなくなり、満州事変を結果したのだ。近代日本はシナ人の同類に落ちぶれたのだ」
「五箇条の御誓文は近代国際法主義で、これは政治家のウソを禁ずる。反近代の儒教は政治家によるウソを禁じない。これが満州事変から敗戦までの、精神的背景である」
(中略)
「この事情は戦後も変わっていないだろう。マックKEMPOHが反自由契約であると分からないようでは、日本の代議士はまだまだアカウンタブルではない。自由とは何かが説明できないのだ」(185~187頁)
以降、この<廃憲>は、兵頭流軍学の中心的な主張となり、ほとんどの著作において何がしかの形で訴えて続けています。そして今夏、SAPIO、半公式ファンページ、チャンネル桜、そして新刊で「江藤淳と三島由紀夫が向き合った憲法改正」をテーマとする論説を乱れ打ち。<廃憲>について、これまでよりも一層念入りに言及してきています。
さて、ここで問題。
草思社から上梓した著作では、2冊続けて一般読者向けにシフトした内容という“共通”点があり、ここにきて<廃憲>を念入りに言及するという“ファクター”がある。
そこから導き出される答えとは?
昨日のエントリでは、草思社の著作の“共通”点について書きました。今日は一昨日指摘したここ最近念入りに言及している“ファクター”について取り上げます。
草思社の既刊『日本人が知らない軍事学の常識』は、発売後すぐに重版がかかるほど売れたそうです。実際、軍師も新刊で「著者が予想しないほどに好評であった」(287頁)と書いているように、近年では珍しく一般読者に受け入れられた著作といえましょう。
かねてから指摘しているように、新刊のテイストも既刊と同じように、一般読者に向けてわかりやすさを意識したものとなっています。具体的な箇所について数え上げるとキリがありませんが、一つだけ例を挙げましょう。
例えば迫撃砲についての解説では――
「前線の歩兵部隊は、射程数キロメートルの対戦車ミサイルも持っているし、迫撃砲も装備している。ちょっと説明すると、一般に、迫撃砲は、『砲兵』部隊には属さない。歩兵部隊が持って歩く、歩兵部隊固有の『重火器』なのだ」(201頁)
――と、書いています。
迫撃砲が砲兵ではなく歩兵のモノであるということは、ちょっとしたミリタリー好き(=ほとんどの兵頭ファン)であれば誰もが知っている“常識”です。一方でこの“常識”は、大多数の一般読者が承知しているものではないことも事実です。これまでの軍師の著作では、このような“常識”についてまでページを割くことはほとんどありませんでした。そう考えると、既刊に続いて新刊も、一般読者向けを意識したテイストで書いているといえるのではないでしょうか。
ではなぜ、このような一般読者向けの著作を上梓するようになったのか?
手前は、今夏から関係各所で発信しまくっている「日本国憲法の廃棄と五箇条の御誓文への回帰」(以下、<廃憲>)の主張が、一つのカギになっていると当て推量しています。
この<廃憲>の主張ですが、軍師は処女作である『日本の防衛力再考』(銀河出版)から一貫して主張しています。
「本書がくどくどと述べているように、一国の占領とは、在住する全主権者が征服者の銃剣の間合いに置かれる状態である。精神的・物理的な間合いを奪われた占領下では、どんな住民も真の自由意志は持ち得ない。したがって、連合軍の占領下で行なわれた選挙や国会決議には、日本国民の自由意志は反映し難い」
(中略)
「成文憲法が規定してくれていようがいまいが、正当防衛や緊急避難の権利は、人間が生まれながらに持ち、かつ、どの公権力に対しても決して手放すことのありえない、最低限の自然権である。占領下の日本国民は自由意志を奪われていたが、そこに自由意志があろうがなかろうが、この二つの最低限の自然権を放棄するという社会契約は、誰も結ぶことができないのである」(184~186頁)
ここでは日本国憲法の持つ欺瞞について指摘しているだけに止まっていますが、その後、2006年に出版した『日本有事――憲法を棄て、核武装せよ!』(PHP研究所)で、明確に<廃憲>という考え方を打ち出しました。
「公然とウソをつくことは恥ずかしいと思わないと自由もないのだ。だからシナ人が支配する空間に自由はない。シナ儒教は政治家がウソをつくことを許容する」
「なのに、昭和前期の日本の官僚にも政党人にも自己説明力はなく、庶民に武侠精神がないために、ウソつきが罰せられなくなり、満州事変を結果したのだ。近代日本はシナ人の同類に落ちぶれたのだ」
「五箇条の御誓文は近代国際法主義で、これは政治家のウソを禁ずる。反近代の儒教は政治家によるウソを禁じない。これが満州事変から敗戦までの、精神的背景である」
(中略)
「この事情は戦後も変わっていないだろう。マックKEMPOHが反自由契約であると分からないようでは、日本の代議士はまだまだアカウンタブルではない。自由とは何かが説明できないのだ」(185~187頁)
以降、この<廃憲>は、兵頭流軍学の中心的な主張となり、ほとんどの著作において何がしかの形で訴えて続けています。そして今夏、SAPIO、半公式ファンページ、チャンネル桜、そして新刊で「江藤淳と三島由紀夫が向き合った憲法改正」をテーマとする論説を乱れ打ち。<廃憲>について、これまでよりも一層念入りに言及してきています。
さて、ここで問題。
草思社から上梓した著作では、2冊続けて一般読者向けにシフトした内容という“共通”点があり、ここにきて<廃憲>を念入りに言及するという“ファクター”がある。
そこから導き出される答えとは?
2012年10月3日水曜日
私家版・兵頭二十八の読み方:その19
**「私家版・兵頭二十八の読み方」のエントリでは、日本で唯一の軍学者である兵頭二十八師の著作を、独断と偏見を持って紹介します**
昨日のエントリでは、草思社の著作に“共通”していることと、ここ最近念入りに言及している“ファクター”について指摘しました。今日は“共通”していることについて書きます。
手前が思うに、今年、草思社から出版した軍師の著作には一つの共通点があります。何かといえば、新ネタの含有量の少なさです。
「いやいや、新刊は機雷戦とかISRとか、新ネタ盛りだくさんだったじゃん!」
と言われれば、「仰るとおり」としか返せませんね。たしかに新ネタ盛りだくさんです。言葉が悪かったです。正確には、既存媒体で未発表である新ネタの含有量の少なさですね。このことは軍師自身も認めています。
「この本で説明し予言していることの半分くらいは、兵頭はすでにインターネット上のウェブサイト(複数)で、説明したり警告したことがある」
「しかし、そのアップロードは五月雨式。毎日それをチェックする手間をかけてくれるような人は、日本全国でも数百人くらいだろう」
「いつも特別なテーマばかりフォローしてはいられないという方々にとっては、その特別なテーマの書籍を購読することが、いちばん時間と労力の節約になるに違いない。いずれにせよ現代人の<時間>はタダじゃないのだ」
「まとまった情報を、人々が摂取しやすくパッケージするスタイルとして、こんにちでも、紙媒体の書籍は勝れているという証明に、本書もなってくれることを望みたい」(283頁)
まぁ、そうはいっても、他の作家や評論家の著作に比べると、十分に新ネタが多く含まれていたりするんですが、ここではあくまでも「これまでの軍師の既刊に比べて」ということです。実際、近作の『新訳 戦争論』や『新解 函館戦争』なんて新ネタだけで書かれたようなものですからね。
さて、草思社の既刊『日本人が知らない軍事学の常識』について、以前、手前はこう書きました。
>実のところ軍師は、「これまでに書いたことを繰り返し書くのは紙資源のムダ」と主張していて、これまでの著作は「既存著作と内容が被らないネタ」か「既存著作の主張を大幅にアップデートするネタ」をベースに上梓してきたわけです。ですが、今回の新刊では(2012年向けにアップデートされているとはいえ)「既存著作と内容が被らないようにする」という信条を、あえて封印しているように見えます。
>これが明確な意図によるものなのか否かはわかりません。ただ、15年来の兵頭二十八ファンとして思うことは、「20年近くのキャリアを振り返る良いタイミングで出た一冊ではないか?」ということです。
出版から半年経ちましたが、この見解はいまでも変わりません。むしろ、新刊において軍師が↑のように書いていたことを読んで、以下のような当て推量を思いつくに至りました。
すなわち軍師は、草思社で出版する書籍について、blogや雑誌などで書いた荒削りな新ネタを、兵頭ファンだけでなく、兵頭本を読んだことのない一般読者に向けて徹底的にソフィスティケートして書く――ことを狙っているのではないか? ということです。
実のところ、“軍学者”ではなく“作家”として<兵頭二十八>という著者を捉えなおしてみると、近年までは間違いなく「マニア向けの作家」でしかありませんでした。よく言えば「新刊が出れば絶対に購入する千人単位の熱烈なファン」を抱えているので、出版社にとっては「確実に数千部は捌ける手堅い作家」ではあったでしょう。しかし、翻ってみれば、「一般受けはしないので、万単位で売ることは困難な作家」でもあったということです。
そんな「マニア向けの作家」だった<兵頭二十八>が、意識的に一般読者に向けてメッセージを発するようになったことには、どのような理由があるのか?
昨日のエントリでは、草思社の著作に“共通”していることと、ここ最近念入りに言及している“ファクター”について指摘しました。今日は“共通”していることについて書きます。
手前が思うに、今年、草思社から出版した軍師の著作には一つの共通点があります。何かといえば、新ネタの含有量の少なさです。
「いやいや、新刊は機雷戦とかISRとか、新ネタ盛りだくさんだったじゃん!」
と言われれば、「仰るとおり」としか返せませんね。たしかに新ネタ盛りだくさんです。言葉が悪かったです。正確には、既存媒体で未発表である新ネタの含有量の少なさですね。このことは軍師自身も認めています。
「この本で説明し予言していることの半分くらいは、兵頭はすでにインターネット上のウェブサイト(複数)で、説明したり警告したことがある」
「しかし、そのアップロードは五月雨式。毎日それをチェックする手間をかけてくれるような人は、日本全国でも数百人くらいだろう」
「いつも特別なテーマばかりフォローしてはいられないという方々にとっては、その特別なテーマの書籍を購読することが、いちばん時間と労力の節約になるに違いない。いずれにせよ現代人の<時間>はタダじゃないのだ」
「まとまった情報を、人々が摂取しやすくパッケージするスタイルとして、こんにちでも、紙媒体の書籍は勝れているという証明に、本書もなってくれることを望みたい」(283頁)
まぁ、そうはいっても、他の作家や評論家の著作に比べると、十分に新ネタが多く含まれていたりするんですが、ここではあくまでも「これまでの軍師の既刊に比べて」ということです。実際、近作の『新訳 戦争論』や『新解 函館戦争』なんて新ネタだけで書かれたようなものですからね。
さて、草思社の既刊『日本人が知らない軍事学の常識』について、以前、手前はこう書きました。
>実のところ軍師は、「これまでに書いたことを繰り返し書くのは紙資源のムダ」と主張していて、これまでの著作は「既存著作と内容が被らないネタ」か「既存著作の主張を大幅にアップデートするネタ」をベースに上梓してきたわけです。ですが、今回の新刊では(2012年向けにアップデートされているとはいえ)「既存著作と内容が被らないようにする」という信条を、あえて封印しているように見えます。
>これが明確な意図によるものなのか否かはわかりません。ただ、15年来の兵頭二十八ファンとして思うことは、「20年近くのキャリアを振り返る良いタイミングで出た一冊ではないか?」ということです。
出版から半年経ちましたが、この見解はいまでも変わりません。むしろ、新刊において軍師が↑のように書いていたことを読んで、以下のような当て推量を思いつくに至りました。
すなわち軍師は、草思社で出版する書籍について、blogや雑誌などで書いた荒削りな新ネタを、兵頭ファンだけでなく、兵頭本を読んだことのない一般読者に向けて徹底的にソフィスティケートして書く――ことを狙っているのではないか? ということです。
実のところ、“軍学者”ではなく“作家”として<兵頭二十八>という著者を捉えなおしてみると、近年までは間違いなく「マニア向けの作家」でしかありませんでした。よく言えば「新刊が出れば絶対に購入する千人単位の熱烈なファン」を抱えているので、出版社にとっては「確実に数千部は捌ける手堅い作家」ではあったでしょう。しかし、翻ってみれば、「一般受けはしないので、万単位で売ることは困難な作家」でもあったということです。
そんな「マニア向けの作家」だった<兵頭二十八>が、意識的に一般読者に向けてメッセージを発するようになったことには、どのような理由があるのか?
2012年10月2日火曜日
私家版・兵頭二十八の読み方:その18
**「私家版・兵頭二十八の読み方」のエントリでは、日本で唯一の軍学者である兵頭二十八師の著作を、独断と偏見を持って紹介します**
兵頭流軍学のテキストとしてはもちろんのこと、近未来の戦争のあり方を占う軍事本としても、昨今流行している“尖閣ネタ本”としても深く読める、兵頭二十八師の新刊『北京は太平洋の覇権を握れるか――想定・絶東米中戦争』。
◆目次
●プロローグ――米支の権益地域としての絶東
●1章:なぜ太平洋の支配権が二強国の争点となるか
●2章:米支開戦までの流れを占う
●3章:想定 米支戦争
・1、サイバー戦
・2、「開戦奇襲」はスパイ衛星を狙って第一弾が放たれる
・3、航空戦の様相
・4、機雷戦の様相
・5、陸戦を占う
・6、核が使用されるシナリオ
●4章:米支戦争に日本はどうつきあうのが合理的か
●エピローグ――開戦前の宣伝に屈しないために
なぜ、米中戦争なのか? 軍師はこのように書いています。
「世界帝国だったスペインの凋落いらいこのかた、グローバルなナンバーワン強国は、『ナンバー2』の強国の隆盛を歓迎せず、傍観せず、放置もしない。かりに現在、『ナンバー2』が軍事力を伴わない経済大国にすぎないとしても、その国民の先進大国意識と技能ポテンシャルとは、一夜にして、ナンバーワンを脅かす軍事資源に転換され得る」
(中略)
「米国指導層は、中共との『友好親善』の余地などないことを、ようやくに悟った。口先で『米支共栄』が謳われることはあろう。だがそれは、外交会場を粉飾する時間稼ぎのマヌーバ(政治術策)であると、どちらも承知している」(15~16頁)
すなわち、いまや二大強国となったアメリカと中国との対立は避けられない――という視点から、両国対立の未来について、考え得るあらゆる可能性を論じきっています。
*なお、上記引用の「ただの経済大国でも、すぐに軍事大国になる可能性がある」というハナシについて、直近の好例としてはワイマール共和国→ナチス・ドイツが挙げられるでしょう。
その内容について、改めてとやかく書くつもりはありません。1600円という値段の割には中身のギッシリ詰まった本――300頁もないので、「ナナメ読みすれば2~3時間で読み終わるナ」と読み始めたら、読破するまでに7時間かかったでござる――なので、Amazonでポチるなり、近所の図書館で借りるなりして読んでください。
さて、新刊を読んで改めて気づいたことがあります。といっても、中国軍の弱さとか、近未来におけるサイバー戦争のあり方とか、儒教国家における約束と密約の違いとか、本の中身にあるようなことではありません。同じ出版社(草思社)の既刊である『日本人が知らない軍事学の常識』と新刊に“共通”していることと、今夏から論文やTV出演、blogなどで念入りに言及している“ファクター”から思いついたことです。
兵頭流軍学のテキストとしてはもちろんのこと、近未来の戦争のあり方を占う軍事本としても、昨今流行している“尖閣ネタ本”としても深く読める、兵頭二十八師の新刊『北京は太平洋の覇権を握れるか――想定・絶東米中戦争』。
◆目次
●プロローグ――米支の権益地域としての絶東
●1章:なぜ太平洋の支配権が二強国の争点となるか
●2章:米支開戦までの流れを占う
●3章:想定 米支戦争
・1、サイバー戦
・2、「開戦奇襲」はスパイ衛星を狙って第一弾が放たれる
・3、航空戦の様相
・4、機雷戦の様相
・5、陸戦を占う
・6、核が使用されるシナリオ
●4章:米支戦争に日本はどうつきあうのが合理的か
●エピローグ――開戦前の宣伝に屈しないために
なぜ、米中戦争なのか? 軍師はこのように書いています。
「世界帝国だったスペインの凋落いらいこのかた、グローバルなナンバーワン強国は、『ナンバー2』の強国の隆盛を歓迎せず、傍観せず、放置もしない。かりに現在、『ナンバー2』が軍事力を伴わない経済大国にすぎないとしても、その国民の先進大国意識と技能ポテンシャルとは、一夜にして、ナンバーワンを脅かす軍事資源に転換され得る」
(中略)
「米国指導層は、中共との『友好親善』の余地などないことを、ようやくに悟った。口先で『米支共栄』が謳われることはあろう。だがそれは、外交会場を粉飾する時間稼ぎのマヌーバ(政治術策)であると、どちらも承知している」(15~16頁)
すなわち、いまや二大強国となったアメリカと中国との対立は避けられない――という視点から、両国対立の未来について、考え得るあらゆる可能性を論じきっています。
*なお、上記引用の「ただの経済大国でも、すぐに軍事大国になる可能性がある」というハナシについて、直近の好例としてはワイマール共和国→ナチス・ドイツが挙げられるでしょう。
その内容について、改めてとやかく書くつもりはありません。1600円という値段の割には中身のギッシリ詰まった本――300頁もないので、「ナナメ読みすれば2~3時間で読み終わるナ」と読み始めたら、読破するまでに7時間かかったでござる――なので、Amazonでポチるなり、近所の図書館で借りるなりして読んでください。
さて、新刊を読んで改めて気づいたことがあります。といっても、中国軍の弱さとか、近未来におけるサイバー戦争のあり方とか、儒教国家における約束と密約の違いとか、本の中身にあるようなことではありません。同じ出版社(草思社)の既刊である『日本人が知らない軍事学の常識』と新刊に“共通”していることと、今夏から論文やTV出演、blogなどで念入りに言及している“ファクター”から思いついたことです。
2012年10月1日月曜日
新作チョコを喰らう:チョコレート効果(レーズン&アーモンド)
★チョコレート効果(レーズン&アーモンド)/明治
●寸評:レーズンとアーモンドの小片が練りこまれているが、口に入れたときの印象としては、「レーズンは添え物。アーモンドは歯応え要員」という感じ。カカオマス含有量が大目なビターチョコレートの風味がとても強く、いい意味で変わらない味。
●カロリー対効果:約310kcal(9個。1個当たり約34kcal)。既存のチョコレート効果と同様に、極めて濃厚なビターチョコレートであるため、甘さは控え目だが、カカオ風味たっぷりのチョコレートを食べたという満足感は非常に高い。アーモンドとレーズンは、ビターチョコにほんの少し彩りを添える程度のもので、正直、あってもなくてもさほど変わりは無いように感じた。カロリー対効果は高め。
●寸評:レーズンとアーモンドの小片が練りこまれているが、口に入れたときの印象としては、「レーズンは添え物。アーモンドは歯応え要員」という感じ。カカオマス含有量が大目なビターチョコレートの風味がとても強く、いい意味で変わらない味。
●カロリー対効果:約310kcal(9個。1個当たり約34kcal)。既存のチョコレート効果と同様に、極めて濃厚なビターチョコレートであるため、甘さは控え目だが、カカオ風味たっぷりのチョコレートを食べたという満足感は非常に高い。アーモンドとレーズンは、ビターチョコにほんの少し彩りを添える程度のもので、正直、あってもなくてもさほど変わりは無いように感じた。カロリー対効果は高め。
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